1919年 - 1930年:ウィーン
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「ヴィルヘルム・ライヒ」の記事における「1919年 - 1930年:ウィーン」の解説
第一次世界大戦中にオーストリア・ハンガリー軍に入隊し、1915年から1918年まで従軍した。最後の2年間はイタリア戦線で中尉として40人の部下を率いて戦った。終戦後ウィーンに向かい、ウィーン大学の法学部に入学したが、退屈に感じ、最初の学期で医学部に転向した。数週間前にオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、新しくできたドイツ・オーストリア共和国は飢饉に見舞われていた。何も持たずにこの町に来たライヒは貧しい食生活をし、暖房のない部屋を弟ともう一人の学部生とシェアしていた。 彼の伝記を書いたマイロン・シャラフ(英語版)は、ライヒは医学を愛していたが、還元主義的・機械論的世界観と生命論的世界観の板挟みになっていたと書いている。ライヒはこの時期について、後にこう書いている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私が学んだすべてのことの背後には、「生命とは何か」という問いがあった。…当時、医学の研究を支配していた機械論的な生命の概念が不十分であることは明らかだった…。生命を支配する創造的な力の原理は否定できないが、それが目に見えるものでない限り、記述したり実際に扱ったりすることができない限り、満足できるものにはならなかった。なぜなら、当然のことながら、これが自然科学の最高の目標であると考えられるためである。 ライヒは同じユダヤ系の精神分析家ジークムント・フロイトを敬愛しており、1919年、彼が性科学に関するセミナーのためにフロイトに読書リストを依頼した時に初めて会い、互いに強い印象を持ったようである。ライヒはまだ22歳の学部生であったが、フロイトは同年9月に分析患者との面会を許可し、わずかな収入を得るようになった。彼はウィーン精神分析協会のゲスト会員として受け入れられ、1920年10月に正会員となり、イシドール・サドガー(英語版)のもとで独自の分析を始めた。彼はウィーンのアルセルグルト地区のフロイトの家の近所のアパートに住み仕事をした。 ライヒの最初の患者の一人は、19歳の女性ローレン・カーンで、彼はこの女性と私的な関係を持った。フロイトは、精神分析家は患者と私的な関わりを持つべきではないと警告していたが、精神分析の黎明期には、その警告は軽視されていた。ライヒの日記によると、カーンは1920年11月に体調を崩し、彼との密会のために借りた部屋で、極寒の中眠りにつき敗血症で亡くなった(大家も彼女の両親も会うことを禁じていた)。 カーンの死の2ヵ月後、ライヒは彼女の友人であるアニー・ピンク(1902 - 1971)を患者として受け入れた。ピンクはライヒの4人目の女性患者で、18歳の医学生だった。ライヒは彼女とも関係を持ち、彼女の父親の強い希望で、精神分析家のオットー・フェニケルとエディス・ブクスバウムを証人に結婚した。この結婚により、エヴァ(1924 - 2008)とローレ(1928年生)の2人の娘が生まれ、のちに2人とも医師となり、エヴァ・ライヒ(英語版)は精神科医、精神分析家となった。 従軍していたため、学士号と医学博士号を6年ではなく4年で修了することを許可され、1922年7月に卒業した。卒業後、市内の大学病院で内科を担当し、1922年から1924年まで同病院の神経・精神科クリニックで、1927年にノーベル医学賞受賞者のユリウス・ワーグナー=ヤウレック教授の下で神経精神医学を研究した。 1922年、エデュアルド・ヒッチマン(英語版)が開設したフロイト派の精神分析外来クリニック「ウィーン外来診療所」で働き始めた。フロイトの指導のもと2番目に開設されたクリニックである。ライヒは1924年にヒッチマンの下で副院長となり、1930年にベルリンに移るまでそこで働き、1922年から1932年にかけて、第一次世界大戦のシェルショック (心理学)(英語版)(砲弾ショック、戦争神経症、戦闘ストレス反応)の患者をメインに、男性1,445人、女性800人に無料または低料金で精神分析を提供した。 シャラフは、ライヒが労働者、農民、学生との共同作業を通じて、神経症的な症状の治療から、混沌としたライフスタイルや反社会的な人格の観察へと移行していったと書いている。ライヒは、強迫性障害などの神経症状は、貧困や幼少期の虐待など、敵対的な環境をコントロールしようとする無意識の試みであると主張した。彼が「性格の鎧」(Charakterpanzer)と呼ぶそれは、防衛機構として機能するものであり、行動・会話・身体的振る舞いの繰り返されるパターンとして示される。エリザベス・ダントー(英語版)によれば、ライヒは精神分析で神経症状を持つ人の抑圧された怒りを解放できると考え、診療所で精神病質者と診断された患者を探した。 ライヒは1924年にウィーンの精神分析研究所の教員になり、研修所長になった。ダントーによると、彼は診療所で毎週開催される技術セミナーで議長を務め、精神分析が無意識の性格特性(後に自我の防衛機制として知られる)の検査に基づいて行われるべきと主張し、性格構造の理論に関する論文を発表し、高く評価された。1927年以降のセミナーには、後に妻のローラ・パールズ(英語版)とゲシュタルト療法を発展させたフレデリック・パールズも参加していた。セミナーで話すライヒがいかに魅力的で雄弁に語っていたかという話が残されている。1934年のデンマークの新聞によれば、次の通りである。 彼が演台の周りを歩きながら話し始めた瞬間、ただうっとりするばかりだった。中世であれば、(魅力が過ぎるので危険視され)この人は追放されたことだろう。雄弁なだけでなく、そのきらめくような個性で聴衆を魅了し続ける。 1925年に最初の著書『Der triebhafte Charakter: eine psychoanalytische Studie zur Pathologie des Ich』(衝動的な性格:自我の病理に関する精神分析的研究)が出版された 。診療所で出会った患者の反社会的人格の研究であり、人格の体系的な理論の必要性を説いたものであった。この本は彼の専門家としての評価を高め、フロイトは1927年に彼をウィーン精神分析学会の執行委員に任命するよう取り計らった。シャラフによれば、これは1922年にライヒの教育分析の第二分析官となり、彼を精神病質者とみなしていたポール・フェダーンの反対を押し切っての任命であった。ライヒはこの学会を退屈に感じ、「鯉の泳ぐ池の中の鮫のように」振舞ったという。 1924年からライヒは「オーガズムの効力」、すなわり、抑圧・トラウマにより緊張し固まった筋肉(筋肉の鎧)から感情を解放し、抑制されないオルガスムで自己を喪失する能力について、一連の論文を発表した。フロイトはこのアイデアをライヒの道楽と考え、彼の「趣味の馬」と呼んでいた。。 ライヒは、精神の健康と愛する能力は、リビドー(性的衝動)の完全な放出であるオーガズムの効力に依る(左右される)と主張した。「性行為における性的解放は、それに至る高揚と調和するものでなければならない。」「それはただ性交することではない…抱き合うこと自体でもなく、性器の挿入でもない。それはあなたの自我の喪失であり、スピリチュアルな自己全体という真に感情的な経験である。」彼は、オーガズムの効力こそが性格分析のゴールであると考えた。シャラフによると、ライヒの性格に関する研究が精神分析界で好評だったのに対し、オーガズムの効力に関する研究は当初から不評で、後に嘲笑にさらされた。彼は「より良いオーガズムの使徒」、「生殖のユートピアの創始者」として知られるようになった。 ライヒの弟は、1926年に父親と同じ結核で亡くなった。ターナーは、1920年代にはウィーンの死因の4分の1が結核だったと書いている。ライヒ自身も1927年に結核にかかり、その年の冬、スイスのダボスの療養所で数週間を過ごした。この療養所は、1945年頃に抗生物質が広く普及する以前に、結核患者が静養と新鮮な空気を求めて通った場所である。ターナーは、ライヒが療養をしたダボスで思想的、実存的な危機を経験し、春に帰国すると怒り狂い、偏執的になっていたと書いている。その数ヵ月後、ライヒとアニーは1927年7月ウィーン騒乱の現場にいた。この事件では、84人の労働者が警察に射殺され、600人が負傷した。この体験がライヒを変えたようであり、彼は人間の不合理さに初めて出会ったと書いている。 彼はすべてを疑い始め、1928年にオーストリア社会民主党に入党した。 まるで殴られたように、それまで全く自然で自明のことと思われていた見解や制度の、科学的な無益さ、生物学的な無意味さ、社会的な有害さを、突如として認識するのである。これは、精神分裂病の患者が病的な形でしばしば遭遇する、一種の終末的な経験である。私は、精神分裂病という精神疾患には、社会的および政治的慣習の非合理性に対する洞察がつきものであると、信念を表明することさえできる。。 当時30歳だったライヒは、ウィーンで労働者の射殺を目撃した影響もあり、マリー・フリショーフ(旧姓マリー・パッペンハイム(ドイツ語版))と共に、1927年に労働者階級(プロレタリアート)の患者を対象とする無料のセックス・カウンセリング・クリニックを、市内6カ所開設した。各クリニックは医師が監督し、3人の産科医と弁護士が勤務し、ライヒが「ゼクスボール」と呼ぶカウンセリングを提供していた。ゼクスボールは、ドイツ・プロレタリア性政治学研究所の略称である。ダントーによると、ライヒは「精神分析的カウンセリング、マルクス主義的アドバイス、避妊具」を共に提供し、若者や未婚者を含め、性に寛容であることの重要性を説き、他の精神分析医や政治左派を不安にさせた。診療所は、助けを求める人々ですぐに混雑するようになった。 またライヒは、他の精神分析医や医師と一緒に、移動診療車で公園や郊外に赴き、10代の少年や青年に語りかけ、婦人科医は女性に避妊具を用意し、リア・ラズキー(ライヒが医学部で恋した女性)は、子供たちに語りかけた。また、性教育のパンフレットを一軒一軒に配布した。 1927年に『Die Funktion des Orgasmus(オーガズムの機能)』を出版し、フロイトに献呈した。1926年5月6日のフロイトの70歳の誕生日に、ライヒは原稿を贈った。ライヒがそれを手渡したとき、フロイトは特に感動した様子もなく、「そんなに厚いのか」と答え、2ヶ月かかって簡潔だが肯定的な返事の手紙を書いた。しかし、ライヒはフロイトに拒絶されたと感じた。フロイトは、問題はライヒが示唆したよりも複雑で、神経症の原因は一つではないと考えていた。フロイトは1928年に、精神分析医ルー・アンドレアス・ザロメ博士への手紙で、次のように書いている。 ライヒ博士は立派だが気性が荒く、自分の趣味の馬に熱中し、性のオーガズムがあらゆる神経症の解毒剤になると考えています。おそらく彼は、あなたのKの分析から、精神の複雑な性質を考慮に入れることを学ぶかもしれません。 1929年、ライヒは妻と共に講演旅行でソ連を訪れ、二人の子供の世話を精神分析医のベルタ・ボルンシュタインに任せた。シャラフによると、性的抑圧と経済的抑圧との関連性、そしてマルクスとフロイトを統合する必要性について、さらに確信を深めて帰国した。1929年に彼の論文「唯物弁証法と精神分析」は、ドイツ共産党の雑誌『Unter dem Banner des Marxismus』に発表された。この論文は、精神分析が唯物史観、階級闘争、プロレタリア革命と親和するかを検討したものであった。ライヒは唯物弁証法が心理学に適用されるならば、それらは親和すると結論付けた。これは、彼のマルクス主義時代の主な理論的発言の一つであり、他に『性道徳の出現』(1932年)、『青年の性的闘争』(1932年)、『ファシズムの大衆心理』(1933年)、『階級意識とは何か』(1934年)、『セクシュアル・レボリューション』(1936年)などがある。
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