1919年 - 1930年:ウィーンとは? わかりやすく解説

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1919年 - 1930年:ウィーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:17 UTC 版)

ヴィルヘルム・ライヒ」の記事における「1919年 - 1930年:ウィーン」の解説

第一次世界大戦中オーストリア・ハンガリー軍に入隊し1915年から1918年まで従軍した最後2年間はイタリア戦線中尉として40人の部下率いて戦った終戦後ウィーン向かいウィーン大学法学部入学したが、退屈に感じ最初学期医学部転向した。数週間前にオーストリア・ハンガリー帝国崩壊し新しくできたドイツ・オーストリア共和国飢饉見舞われていた。何も持たずにこの町に来たライヒ貧し食生活をし、暖房のない部屋を弟ともう一人学部生シェアしていた。 彼の伝記書いたマイロン・シャラフ(英語版)は、ライヒ医学愛していたが、還元主義的機械論的世界観生命論的世界観板挟みになっていたと書いている。ライヒはこの時期について、後にこう書いている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私が学んだすべてのことの背後には、「生命とは何か」という問いがあった。…当時医学研究支配していた機械論的な生命概念が不十分であることは明らかだった…。生命支配する創造的な力の原理否定できないが、それが目に見えるものでない限り記述した実際に扱ったりすることができない限り満足できるものにはならなかった。なぜなら、当然のことながら、これが自然科学の最高の目標であると考えられるためである。 ライヒは同じユダヤ系精神分析家ジークムント・フロイト敬愛しており、1919年、彼が性科学に関するセミナーのためにフロイト読書リスト依頼した時に初め会い互いに強い印象持ったようである。ライヒはまだ22歳学部生であったが、フロイト同年9月分析患者との面会許可しわずかな収入を得るようになった。彼はウィーン精神分析協会ゲスト会員として受け入れられ1920年10月正会員となり、イシドール・サドガー(英語版)のもとで独自の分析始めた。彼はウィーンのアルセルグルト地区フロイトの家の近所アパート住み仕事をした。 ライヒ最初患者一人は、19歳女性ローレン・カーンで、彼はこの女性と私的な関係を持ったフロイトは、精神分析家患者私的な関わりを持つべきではないと警告していたが、精神分析黎明期には、その警告軽視されていた。ライヒ日記によると、カーン1920年11月体調崩し、彼との密会のために借りた部屋で、極寒の中眠りにつき敗血症亡くなった大家も彼女の両親も会うことを禁じていた)。 カーンの死の2ヵ月後、ライヒは彼女の友人であるアニー・ピンク(1902 - 1971)を患者として受け入れたピンクライヒ4人目女性患者で、18歳医学生だった。ライヒは彼女とも関係を持ち、彼女の父親の強い希望で、精神分析家オットー・フェニケルとエディス・ブクスバウムを証人結婚した。この結婚により、エヴァ1924 - 2008)とローレ1928年生)の2人の娘が生まれ、のちに2人とも医師となり、エヴァ・ライヒ(英語版)は精神科医精神分析家となった従軍していたため、学士号医学博士号6年ではなく4年修了することを許可され1922年7月卒業した卒業後、市内大学病院内科担当し1922年から1924年まで同病院の神経・精神科クリニックで、1927年ノーベル医学賞受賞者ユリウス・ワーグナー=ヤウレック教授の下で神経精神医学研究した1922年、エデュアルド・ヒッチマン(英語版)が開設したフロイト派の精神分析外来クリニックウィーン外来診療所」で働き始めたフロイト指導のもと2番目に開設されクリニックである。ライヒ1924年にヒッチマンの下で副院長となり、1930年ベルリンに移るまでそこで働き1922年から1932年にかけて、第一次世界大戦シェルショック (心理学)(英語版)(砲弾ショック戦争神経症戦闘ストレス反応)の患者メインに、男性1,445人、女性800人に無料または低料金精神分析提供した。 シャラフは、ライヒ労働者農民学生との共同作業通じて神経症的な症状治療から、混沌としたライフスタイル反社会的な人格観察へと移行していったと書いている。ライヒは、強迫性障害などの神経症状は、貧困幼少期虐待など、敵対的な環境コントロールしようとする無意識の試みであると主張した。彼が「性格の鎧」(Charakterpanzer)と呼ぶそれは、防衛機構として機能するものであり、行動会話身体的振る舞い繰り返されるパターンとして示される。エリザベス・ダントー(英語版によればライヒ精神分析神経症状を持つ人の抑圧され怒り解放できる考え診療所精神病質者診断され患者探したライヒ1924年ウィーン精神分析研究所教員になり、研修所になったダントーによると、彼は診療所毎週開催される技術セミナー議長務め精神分析無意識の性格特性(後に自我防衛機制として知られる)の検査基づいて行われるべきと主張し性格構造理論に関する論文発表し高く評価された。1927年以降セミナーには、後に妻のローラ・パールズ(英語版)とゲシュタルト療法発展させたフレデリック・パールズ参加していた。セミナーで話すライヒがいかに魅力的雄弁語っていたかという話が残されている。1934年デンマーク新聞によれば次の通りである。 彼が演台周り歩きながら話し始めた瞬間、ただうっとりするばかりだった。中世であれば、(魅力が過ぎるので危険視され)この人追放されたことだろう。雄弁なだけでなく、そのきらめくような個性聴衆魅了し続ける。 1925年最初著書Der triebhafte Charakter: eine psychoanalytische Studie zur Pathologie des Ich』(衝動的な性格自我病理に関する精神分析研究)が出版された 。診療所出会った患者反社会的人格研究であり、人格体系的な理論必要性説いたものであった。この本は彼の専門家として評価高めフロイト1927年に彼をウィーン精神分析学会の執行委員任命するよう取り計らった。シャラフによれば、これは1922年ライヒ教育分析第二分析官となり、彼を精神病質者みなしていたポール・フェダーン反対押し切って任命であったライヒはこの学会を退屈に感じ、「の泳ぐ池の中ののように」振舞ったという。 1924年からライヒは「オーガズム効力」、すなわり、抑圧トラウマにより緊張し固まった筋肉筋肉の鎧)から感情解放し抑制されないオルガスム自己喪失する能力について一連の論文発表したフロイトはこのアイデアライヒ道楽考え彼の趣味の馬」と呼んでいた。。 ライヒは、精神の健康と愛す能力は、リビドー性的衝動)の完全な放出であるオーガズム効力依る左右される)と主張した。「性行為における性的解放は、それに至る高揚調和するものでなければならない。」「それはただ性交することではない…抱き合うこと自体でもなく、性器の挿入でもない。それはあなたの自我喪失であり、スピリチュアル自己全体という真に感情的な経験である。」彼は、オーガズム効力こそが性格分析ゴールであると考えた。シャラフによると、ライヒ性格に関する研究精神分析界で好評だったのに対しオーガズム効力に関する研究当初から不評で、後に嘲笑さらされた。彼は「より良いオーガズム使徒」、「生殖のユートピア創始者」として知られるようになったライヒの弟は、1926年父親と同じ結核亡くなったターナーは、1920年代にはウィーン死因4分の1結核だったと書いている。ライヒ自身1927年結核にかかり、その年の冬スイスダボス療養所で数週間過ごした。この療養所は、1945年頃抗生物質広く普及する以前に、結核患者静養新鮮な空気求めて通った場所である。ターナーは、ライヒ療養をしたダボス思想的実存的な危機経験し春に帰国する怒り狂い偏執的になっていたと書いている。その数ヵ月後、ライヒアニー1927年7月ウィーン騒乱現場にいた。この事件では、84人の労働者警察射殺され600人が負傷した。この体験ライヒ変えたようであり、彼は人間不合理さ初め出会ったと書いている。 彼はすべてを疑い始め1928年オーストリア社会民主党入党した。 まるで殴られたようにそれまで全く自然で自明のことと思われていた見解制度の、科学的な無益さ生物学的な無意味さ社会的な有害さを、突如として認識するのである。これは、精神分裂病患者病的な形でしばしば遭遇する一種終末的な経験である。私は、精神分裂病という精神疾患には、社会的および政治的慣習非合理性に対す洞察つきものであると、信念表明することさえできる。。 当時30歳だったライヒは、ウィーン労働者射殺目撃した影響もあり、マリー・フリショーフ(旧姓マリー・パッペンハイム(ドイツ語版))と共に1927年労働者階級プロレタリアート)の患者対象とする無料のセックス・カウンセリング・クリニックを、市内6カ所開設した。各クリニック医師監督し、3人の産科医弁護士勤務しライヒが「ゼクスボール」と呼ぶカウンセリング提供していた。ゼクスボールは、ドイツ・プロレタリア性政治学研究所の略称である。ダントーによると、ライヒは「精神分析カウンセリングマルクス主義アドバイス避妊具」を共に提供し若者未婚者含め、性に寛容であることの重要性説き、他の精神分析医政治左派不安にさせた。診療所は、助けを求める人々ですぐに混雑するようになった。 またライヒは、他の精神分析医医師一緒に移動診療車で公園郊外に赴き、10代少年青年語りかけ、婦人科医女性避妊具用意し、リア・ラズキー(ライヒ医学部恋した女性)は、子供たち語りかけた。また、性教育パンフレット一軒一軒配布した1927年に『Die Funktion des Orgasmusオーガズム機能)』を出版しフロイト献呈した。1926年5月6日フロイト70歳誕生日に、ライヒ原稿贈ったライヒがそれを手渡したとき、フロイトは特に感動した様子もなく、「そんなに厚いのか」と答え、2ヶ月かかって簡潔だ肯定的な返事の手紙を書いた。しかし、ライヒフロイト拒絶されたと感じたフロイトは、問題ライヒ示唆したよりも複雑で、神経症原因一つではないと考えていた。フロイト1928年に、精神分析医ルー・アンドレアス・ザロメ博士の手紙で、次のように書いている。 ライヒ博士立派だ気性荒く自分趣味の馬に熱中し、性のオーガズムあらゆる神経症解毒剤になると考えてます。おそらく彼は、あなたのKの分析から、精神複雑な性質考慮に入れることを学ぶかもしれません。 1929年ライヒは妻と共に講演旅行ソ連訪れ二人の子供の世話精神分析医のベルタ・ボルンシュタインに任せた。シャラフによると、性的抑圧経済的抑圧との関連性、そしてマルクスフロイト統合する必要性について、さらに確信深めて帰国した1929年彼の論文唯物弁証法精神分析」は、ドイツ共産党雑誌『Unter dem Banner des Marxismus』に発表された。この論文は、精神分析唯物史観階級闘争プロレタリア革命親和するかを検討したものであったライヒ唯物弁証法心理学適用されるならば、それらは親和すると結論付けた。これは、彼のマルクス主義時代主な理論発言一つであり、他に『性道徳出現』(1932年)、『青年性的闘争』(1932年)、『ファシズム大衆心理』(1933年)、『階級意識とは何か』(1934年)、『セクシュアル・レボリューション』(1936年)などがある。

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