イェジ・ユゼフ・ポトツキとは? わかりやすく解説

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イェジ・ユゼフ・ポトツキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 15:24 UTC 版)

イェジ・ユゼフ・ポトツキ
Jerzy Józef Potocki

出生 (1889-01-29) 1889年1月29日
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死去 (1961-09-10) 1961年9月10日(72歳没)
スイスジュネーヴ
配偶者 スサナ・デ・イトゥレゲイ
家名 ポトツキ家
父親 ロマン・ポトツキ
母親 エルジュビェタ・ラジヴィウヴナ
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イェジ・ユゼフ・ヘンリク・ポトツキJerzy Józef Henryk Potocki1889年1月29日 - 1961年9月10日)は、ポーランド貴族、外交官。伯爵。トルコ駐在大使、アメリカ合衆国駐在大使を歴任した。

経歴

ロマン・ポトツキ伯爵とその妻のエルジュビェタ・ラジヴィウヴナ公女(1861年 - 1950年)の間の次男として生まれた[1]。父方の祖父はツィスライタニエン首相のアルフレト・ユゼフ・ポトツキ、母方の祖父はドイツ皇帝の高級副官アントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウである。1930年にスペイン人のスサナ・デ・イトゥレゲイ(Suzana de Ytureguei y Orbegoso, 1899年 - 1989年)と結婚し、息子を1人もうけている[1]

オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の崩壊後、ポーランド共和国の市民となった。1919年1月8日にポーランド軍に入隊し騎兵大尉に任命され、参謀本部に属した後、ブダペストのポーランド大使館に駐在武官として派遣された。1933年にイタリア駐在大使に任命されたが、四カ国協定(Four-Power Pact)の締結に反発して辞退した。1933年より1936年までトルコ駐在大使を、1936年より1940年までアメリカ合衆国駐在大使を務めた。1945年にポーランドが共産化された後は、スイスで亡命生活を送った[2]

脚注

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Jerzy Józef Henryk Potocki z Podhajec h. Pilawa (Srebrna) (ID: psb.23933.11)”. 2012年4月4日閲覧。
  2. ^ Encyclopaedia Britannica: Volume 23, 1973, S. 776



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