アルフレト・ユゼフ・ポトツキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 08:17 UTC 版)
アルフレト・ユゼフ・ポトツキ
Alfred Józef Potocki
|
|
---|---|
![]()
アルフレト・ユゼフ・ポトツキ伯爵
|
|
生年月日 | 1817年/1822年 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1889年5月18日 |
死没地 | ![]() |
配偶者 | マリア・クレメンティナ・サングシュカ |
親族 | 父:アルフレト・ヴォイチェフ・ポトツキ 孫:イェジ・ユゼフ・ポトツキ |
|
|
在任期間 | 1870年4月12日 - 1871年2月6日 |
皇帝 | フランツ・ヨーゼフ1世 |

アルフレト・ユゼフ・ポトツキ(ポーランド語:Alfred Józef Potocki、1817年/1822年 - 1889年5月18日)は、ポーランドの貴族、伯爵、地主、政治家、君主制支持者、自由主義的保守主義者。ワィンツトの第2代オルディナト。オーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)の政界でも活躍し、首相を務めた。
経歴
アルフレト・ヴォイチェフ・ポトツキ伯爵の息子として生まれた。小説家ヤン・ポトツキは父方の祖父、外交官のイェジ・ユゼフ・ポトツキは孫にあたる。1851年にロマン・スタニスワフ・サングシュコ公の娘マリア・クレメンティナと結婚した。1863年から亡くなるまでオーストリア領ガリツィア・ロドメリア王国の国会議員の席を占め、1875年から1877年までは同国会の議長を務めた。また1862年にはオーストリア貴族院議員に選ばれ、1867年から1870年にかけオーストリア農政大臣、1870年から1871年にかけて二重帝国のオーストリア側首相(防衛大臣を兼務)の任にあった。1873年にはクラクフに創設されたポーランド技術アカデミーの共同設立者の一人になっている。さらに1875年から1883年まで、ガリツィア総督であった。
先代 レオポルト・ハスナー・フォン・アルタ |
オーストリアの首相 1870年 - 1871年 |
次代 カール・ホーエンヴァルト |
固有名詞の分類
金羊毛騎士団員 |
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド リナルド・デステ アルフレト・ユゼフ・ポトツキ シュテファン・フォン・エスターライヒ フランツ・カール・フォン・エスターライヒ |
ポーランドの政治家 |
アダム・チェルニャクフ ハイム・ルムコフスキ アルフレト・ユゼフ・ポトツキ タデウシュ・コモロフスキ アレクサンデル・ヴィエロポルスキ |
オーストリアの貴族 |
ヨーゼフ・ラデツキー アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト アルフレト・ユゼフ・ポトツキ アレクサンダー・フォン・メンスドルフ=プイリー アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール |
オーストリアの首相 |
フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト クルト・シュシュニック アルフレト・ユゼフ・ポトツキ フレート・ジノヴァツ アレクサンダー・フォン・メンスドルフ=プイリー |
ポトツキ家 |
フェリクス・カジミェシュ・ポトツキ ユゼフ・ポトツキ アルフレト・ユゼフ・ポトツキ スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ デルフィナ・ポトツカ |
- アルフレト・ユゼフ・ポトツキのページへのリンク