アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキの意味・解説 

アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 04:29 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキ
Artur Władysław Potocki
アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキ、ヤン・マテイコ画、1890年

出生 (1850-06-14) 1850年6月14日
オーストリア帝国、クシェショヴィツェ
死去 (1890-03-26) 1890年3月26日(39歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国、クシェショヴィツェ
配偶者 ルージャ・ゾフィア・ルボミルスカ
家名 ポトツキ家
父親 アダム・ユゼフ・ポトツキ
母親 カタジナ・ブラニツカ
テンプレートを表示

アルトゥル・ヴワディスワフ・ユゼフ・マリア・ポトツキArtur Władysław Józef Maria Potocki, 1850年6月14日 - 1890年3月26日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)ポーランド人貴族、実業家、政治家。伯爵。

略歴

アダム・ユゼフ・ポトツキ伯爵とその妻のカタジナ・ブラニツカ伯爵夫人の間の長男として、クシェショヴィツェで生まれた[1]。父方の曽祖父は小説家ヤン・ポトツキ、母方の曽祖父はヘトマンフランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキ、義理の叔父(母の妹の夫)は詩人ジグムント・クラシンスキ、従伯父はツィスライタニエン首相を務めた政治家アルフレト・ユゼフ・ポトツキ、弟はガリツィア総督のアンジェイ・カジミェシュ・ポトツキである。

クラクフパリ、ブレスラウ(現在のポーランドドルヌィ・シロンスク県ヴロツワフ)で教育を受けた。1881年にガリツィア王国議会議員となり、1889年に終身の帝国貴族院議員となった。クラクフ政界における保守派の若手指導者であり、特に東ガリツィアの保守派閥(Podolacy)に支持基盤を持っていた。ポトツキは経済関係の活動に熱心で、1887年のガリツィア全国ストライキの主導者であったほか、クラクフ農業経営者協会の会長やクラクフの勧業銀行の社長を務めた。ルドルフ皇太子の友人の1人でもあった。

ポトツキはクシェショヴィツェ、スタシュフ、ミェンジェフフ(Mędrzechów)、ビャワ・ツェルキェフ(現在のウクライナキエフ州ビーラ・ツェールクヴァ)の領主であった。1877年にルージャ・ゾフィア・ルボミルスカ公女(1860年 - 1881年)と結婚し、間に娘を2人もうけた[1]

参考文献

脚注

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Artur Władysław Józef Potocki z Podhajec h. Pilawa (Srebrna) (ID: 15.105.562)”. 2012年3月28日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキ」の関連用語

アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアルトゥル・ヴワディスワフ・ポトツキ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS