イェジ・ヘンリク・ルボミルスキとは? わかりやすく解説

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イェジ・ヘンリク・ルボミルスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/21 08:48 UTC 版)

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イェジ・ヘンリク・ルボミルスキ

イェジ・ヘンリク・ルボミルスキJerzy Henryk Lubomirski, 1817年5月28日 ウィーン - 1872年5月25日 クラクフ)は、オーストリアガリツィアポーランド人貴族、政治家、篤志家。ルボミルスキ家の公(侯爵(Fürst)/公爵(książę))。プシェヴォルスクの第2代オルディナト

生涯

ヘンリク・ルボミルスキ公とその妻のテレサ・チャルトリスカ公女(1785年 - 1868年)の間の長男として生まれ[1]ウィーンプラハで教育を受けた。1848年革命の際にはプラハで開催された汎スラヴ会議(Slawenkongress)にはガリツィア代表として出席し、1861年には帝国議会議員となった。1869年から1872年にかけ、レンベルク(現在のウクライナリヴィウ州リヴィウ)のオッソリネウム(Ossolineum)民族研究所の理事を務めた。1870年、父ヘンリクとユゼフ・マクシミリアン・オッソリンスキ伯爵が生前に交わしていた協定に基づき、居城プシェヴォルスク城(Pałac w Przeworsku)の美術・古物収集品と蔵書をオッソリネウム内のルボミルスキ公爵博物館(Muzeum Książąt Lubomirskich)に寄贈した。1872年に創設されたクラクフ・アカデミー(Polska Akademia Umiejętności)の創設者にも名を連ねた。

1853年にアンジェイ・アルトゥル・ザモイスキ伯爵の娘ツェツィリア・ザモイスカ(1831年 - 1904年)と結婚し、間に2男3女の5人の子女をもうけた[1]。長男のアンジェイ・ルボミルスキ(Andrzej Lubomirski、1862年 - 1953年)と次男のカジミェシュ・ルボミルスキ(1869年 - 1930年)は共に政治家として活動した。

参考文献

脚注

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Jerzy Henryk ks. Lubomirski z Lubomierza h. Drużyna (ID: 15.105.659)”. 2012年3月29日閲覧。



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