第二次芸術座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 02:32 UTC 版)
1924年(大正13年)、水谷竹紫は、演劇界の発展と、義妹である女優・水谷八重子の育成を目的として劇団結成を考えた。これを聞いた島村の遺族から「芸術座」の名称の使用を薦められたこともあって、芸術座として結成(第二次芸術座)。この時の主な協力者は、汐見洋、田村秋子、友田恭助、青山杉作など。 劇評家からの評価は高かったものの、竹紫が衣装や小道具にこだわったことから商業的には赤字という公演が続いた。そのため、松竹との提携や満州公演、新派一座との共同公演などを積極的に行った。 1935年(昭和10年)、竹紫が死去。その後は八重子が中心人物となって活動を続けたが、1945年(昭和20年)になって本土空襲が日常茶飯事のような状況となると、もう公演を続けていくことができなくなり解散した。
※この「第二次芸術座」の解説は、「芸術座 (劇団)」の解説の一部です。
「第二次芸術座」を含む「芸術座 (劇団)」の記事については、「芸術座 (劇団)」の概要を参照ください。
- 第二次芸術座のページへのリンク