新劇のころ
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「水谷八重子 (初代)」の記事における「新劇のころ」の解説
東京市牛込区神楽坂(現在の東京都新宿区神楽坂)に、時計商の松野豊蔵・とめ夫妻の次女として生れる。八重子が数え二つのとき、姉の勢舞は作家の水谷竹紫と結婚したが、五つのときに父が死去したため、八重子は母とともに姉と義兄のもとに身を寄せることになった。 竹紫が劇団芸術座の設立に中心的な役割を果たしたこともあって、八重子もごく自然にもその舞台に立つようになった。1914年(大正3年)、島村抱月に招かれるかたちで端役で出演すると、すぐに小山内薫に認められ、1916年(大正5年)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子演じるアンナ役の息子役で出演する。 1918年(大正7年)、雙葉高等女学校(現在の雙葉高等学校)に入学するが、その後も1920年(大正9年)の新協劇団公演『青い鳥』で兄のチルチル役を演じ、以後本格的に女優の道を歩むこととなる。この舞台で共演した友田恭助と親しくなり、二人で「わかもの座」という劇団を作り、野外劇などを上演する。その頃、畑中が監督として招かれていた国際活映から誘われ、1921年(大正10年)、畑中が監督した『寒椿』で井上正夫と共演し、映画デビューする。ただし雙葉高女から圧力がかかり、名前を出すことは不可ということになったので、「覆面令嬢」という匿名での出演となった。 雙葉高女を卒業後、「研究座」に入り、新劇、大衆劇双方から引っ張りだこになる。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を1924年(大正13年)に創立すると、その中心メンバーとして活躍した。 1935年(昭和10年)竹紫が死去。その間に井上正夫と一座を組んで本郷座で公演し、新派劇の隆盛に尽力する傍ら、松竹などから映画にも出演した。私生活でも1937年(昭和12年)には十四代目守田勘彌と結婚し、2年後に一人娘の好重(のちの水谷良重(二代目水谷八重子)を儲けている。
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