新劇のころとは? わかりやすく解説

新劇のころ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:13 UTC 版)

水谷八重子 (初代)」の記事における「新劇のころ」の解説

東京市牛込区神楽坂現在の東京都新宿区神楽坂)に、時計商の松野豊・とめ夫妻次女として生れる八重子数え二つのとき、姉の勢舞は作家水谷竹紫結婚したが、五つのときに父が死去したため、八重子は母とともに姉と義兄のもとに身を寄せることになった。 竹紫が劇団芸術座設立中心的な役割果たしたこともあって、八重子もごく自然にもその舞台に立つようになった1914年大正3年)、島村抱月招かれるかたちで端役出演すると、すぐに小山内薫認められ1916年大正5年)には帝劇公演アンナ・カレーニナ』で松井須磨子演じアンナ役の息子役で出演する1918年大正7年)、雙葉高等女学校現在の雙葉高等学校)に入学するが、その後1920年大正9年)の新協劇団公演青い鳥』で兄のチルチル役を演じ以後本格的に女優の道を歩むこととなる。この舞台で共演した友田恭助親しくなり、二人でわかもの座」という劇団作り野外劇などを上演するその頃畑中監督として招かれていた国際活映から誘われ1921年大正10年)、畑中監督した寒椿』で井上正夫共演し映画デビューする。ただし雙葉高女から圧力がかかり、名前を出すことは不可ということになったので、「覆面令嬢」という匿名での出演となった雙葉高女卒業後、「研究座」に入り新劇大衆双方から引っ張りだこになる。1923年大正12年9月1日関東大震災後義兄水谷竹紫第二次芸術座1924年大正13年)に創立すると、その中心メンバーとして活躍した1935年昭和10年)竹紫が死去その間井上正夫一座組んで本郷座公演し新派劇隆盛尽力する傍ら松竹などから映画にも出演した私生活でも1937年昭和12年)には十四代目守田勘彌結婚し2年後一人娘の好重(のちの水谷良重二代目水谷八重子)を儲けている。

※この「新劇のころ」の解説は、「水谷八重子 (初代)」の解説の一部です。
「新劇のころ」を含む「水谷八重子 (初代)」の記事については、「水谷八重子 (初代)」の概要を参照ください。

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