新劇と女優の導入
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1922年(大正11年)9月、後藤信治が所長に就任した。同年、田中栄三が監督した映画『京屋襟店』は、女形が出演する映画の最後の輝きとなった。同作の完成試写が行われた同年11月25日夜、前取締役の石井常吉の国際活映再建の為の引き抜きにより、藤野秀夫を初めとする13名の幹部俳優、1名の監督、2名の撮影技師が退社を表明した。退職した者は下記の通りである。 俳優 : 藤野秀夫、衣笠貞之助、島田嘉七、東猛夫、宮島憲一、横山運平、大井吉彌、荒木忍、五月操、藤川三之助、新井淳、邦江弘久(國江弘)、川上吾郎 監督 : 坂田重則 撮影技師 : 持田米三、高城泰策 この流れのなかで、溝口健二が23歳で監督に昇進した。残されたのは、山本嘉一以外はすべて端役で、同日夜、緊急に首脳陣が、専務取締役の風間又左衛門、後藤信治、京都からすでに独立した牧野省三ら重役まで呼んで同撮影所次長の小園末徳と会議を開き、田中、山本の同席のもとで、田中の提案により、同年12月1日付で新劇の舞台協会との提携を決め。山田隆弥、佐々木積、森英治郎、東屋三郎、岡田嘉子、夏川静江、東八重子ら20数名が向島に参加することとなった、同協会の俳優と3本を製作することとし、結果的には、旧劇という女形による芝居から新劇にシフトできた。 1923年(大正12年)春、本社一旦支配人根岸耕一が撮影所長を兼務、初めて「監督制度」を敷いた。これまでの作品について、現在もデータに乏しいのはこの遅れのためである。脚本部に川村花菱、田中総一郎、大泉黒石、平戸延介(のちの映画監督山本嘉次郎)が入社している。当時の演出部は、田中栄三、鈴木謙作、若山治、溝口健二、細山喜代松、大洞元吾がいた。同年5月、田中栄三は退社した が、松竹蒲田撮影所から村田実を演出部に迎えた。村田の入社第1回作品は『地獄の舞踏』であった。 同年9月1日の関東大震災により、同撮影所は壊滅、日活以前のフィルムアーカイヴもすべて灰燼に帰した。同社首脳は緊急取締役会を開き、本社は非常事態に会社を一旦解散し、1,000人の従業員の解雇を宣言した。それでも同撮影所では、溝口健二、鈴木謙作、細山喜代松が震災をテーマにした作品を製作した。震災後、急造で復興し、溝口健二らの震災のエピソードによる映画を製作したが、同年11月14日、向島撮影所の解雇を免れた全メンバーは、京都の日活大将軍撮影所に一時移籍となった。4日後の同月18日、大将軍で、溝口と村田がクランクインし、同撮影所の歴史は終焉となり、現代劇部もそのまま京都に固定された。
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