東屋三郎とは? わかりやすく解説

東屋三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 16:30 UTC 版)

あずまや さぶろう
東屋 三郎
本名 油屋 三三郎(あぶらや さんざぶろう)
生年月日 (1892-05-15) 1892年5月15日
没年月日 (1935-07-03) 1935年7月3日(43歳没)
出生地 日本 東京市神田区
職業 俳優
ジャンル 新劇劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1917年 - 1935年
配偶者 岸輝子
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東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1935年7月3日[1])は、日本の俳優である。本名は油屋 三三郎(あぶらや さんざぶろう)[1]

人物・来歴

1892年(明治25年)5月15日東京市神田区駿河台南甲賀町(現在の東京都千代田区神田駿河台三丁目)に「油屋 三三郎」として生まれる[1]父親代議士光妙寺三郎母親柳橋芸者・お六。1893年の父の死後は、父の親友であった西園寺公望が引き取って養育した[2]

慶應義塾大学に入学、在学中に青山杉作らと出会い、1917年(大正6年)2月17日、新劇の劇団「踏路社」を結成する[1]。『画家とその弟子』で初舞台を踏む[1]

1920年代には、舞台協会に参加し、1923年(大正11年)、舞台協会が日活向島撮影所と出演提携を結び、サイレント映画に出演する[1]築地小劇場等にも参加した[1]。1927年(昭和2年)には、ミナトーキーが小山内薫を監督に起用して製作した初期のトーキーに出演、以降はトーキーにのみ出演した。

1935年(昭和10年)、P.C.L.映画製作所製作の映画に出演するが、同年7月3日、死去した[1]。満43歳没。

フィルモグラフィ

  • 『人の心』 : 監督小沢得二、1922年、労資協調会宣伝映画
  • 髑髏の舞』 : 監督田中栄三、1923年、日活向島撮影所 - 北澤の番頭源吉
  • 『忘れな草』 : 監督田中栄三、1923年、日活向島撮影所
  • 『三つの魂』 : 監督田中栄三、1923年、日活向島撮影所
  • 『血の洗礼』 : 監督若山治、1923年、日活向島撮影所
  • 『毒塵』 : 監督細山喜代松、脚本平戸延介(山本嘉次郎)1923年、日活向島撮影所
  • 『黎明』 : 監督小山内薫、1927年、ミナトーキー - 男B
  • 『もの言わぬ花』 : 監督蔦見丈夫、1931年、発声映画社 - 叔父清照
  • 『昼寝も出来ない』 : 監督小沢得寿、1932年、映音商店 - 空巣覗いのB
  • 坊つちやん』 : 監督山本嘉次郎、1935年、P.C.L.映画製作所 - 野だ
  • 『三色旗ビルディング』 : 監督木村荘十二、1935年、P.C.L.映画製作所 - 牧師

  1. ^ a b c d e f g h 東屋三郎、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2009年12月26日閲覧。
  2. ^ 『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』文藝春秋〈文春新書〉、2007年。ISBN 4166606093  pp.108

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