新劇から成人映画へ
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1941年(昭和16年)5月2日、大東亜戦争開戦前の大阪府大阪市に生まれる。 1957年(昭和32年)4月、新制高等学校に進学するも、中途退学し、新劇の道を進む。所属劇団名等は不明であるが、演劇歴10年を経て、劇団の公演のための前売りノルマを長期滞納し、窮余の策としてピンク映画に出演することにした。1967年(昭和42年)、新藤孝衛が監督した大月麗子の初主演作『初もの 日本㊙風俗史』が、そのデビュー作である。当時すでに乱は満26歳であった。乱を新藤に紹介したのは、おなじ新劇出身で野上正義(1940年 - 2010年)の劇団の先輩でもあった椙山拳一郎(1934年 - 2015年)である。乱の回想によれば、デビュー作を含め当初はヌードシーンのない脇役女優であったが、透視メガネをかけると服が透けて見える設定の作品で、野上が当初予定のなかった乱のほうを見る芝居をしたため、設定変更してヌードにならざるを得なくなったのが最初であったという。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、乱の名は挙げられていない。これは映画界へのデビューが遅かったためであり、年齢的には、松井康子(1939年 - )、扇町京子(1940年 - )、内田高子(1942年 - )、路加奈子(1943年 - )、火鳥こずえ(1943年 - )、清水世津(1943年 - )らと同世代であり、舞台女優としてのキャリアはさらに長い。当初は年下の大月の主演作への助演であり、乱よりも若い桂奈美や谷ナオミの主演作に多く助演していたが、1968年(昭和43年)6月に公開された『白い快感』(監督福田晴一)では、主演女優として記録されている。 同年には、まだ「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始していなかった日活がいくつか成人映画に触手を伸ばしており、児井英生の青山プロダクションが製作した『女浮世風呂』(監督井田探、脚本山崎巌)に清水世津、辰巳典子、美矢かほる、林美樹、谷ナオミ、大月麗子、内田高子、火鳥こずえらとともに出演、同じく『ある色魔の告白 色欲の果て』(監督江崎実生、脚本山崎巌)に大月麗子、清水世津、高月絢子、火鳥こずえ、辰巳典子、美矢かほる、橘桂子、林美樹、高鳥和子、真湖道代らとともに出演、さらに『秘帳 女浮世草紙』(監督井田探、構成小川欽也、脚本山崎巌)に火鳥こずえ、辰巳典子、真湖道代、林美樹、中原かほる、高月絢子らとともに出演、それぞれ同年7月10日、同年8月14日、同年10月19日に公開された。いずれも助演であったが、演技力には定評があり、若松孝二率いる若松プロダクションが製作した『毛の生えた拳銃』(監督大和屋竺、1968年5月公開)、『処女ゲバゲバ(フランス語版)』(監督若松孝二、1969年7月11日公開)、『ゆけゆけ二度目の処女(英語版)』(監督若松孝二、1969年10月公開)にも起用された。同年12月1日に発行された専門誌『成人映画』第35号(現代工房)の表紙に起用された。 1971年(昭和46年)11月、日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、同月20日に公開された『団地妻 昼下りの情事』(監督西村昭五郎、主演白川和子)と『色暦大奥秘話』(監督林功、主演小川節子)をもって「日活ロマンポルノ」を開始する。乱はこの『色暦大奥秘話』に「音羽」役で助演している。翌1972年(昭和46年)1月18日に公開された『ラブ・ハンター 恋の狩人』(監督山口清一郎、主演原英美)にも引き続き出演したが、同作は、同月、刑法第175条のわいせつ図画公然陳列罪と同配布容疑で警視庁に摘発された(日活ロマンポルノ事件)。以降も、大蔵映画を中心にしつつ、日活ロマンポルノにも出演した。大蔵映画の社長・大蔵貢(1899年 - 1978年)、その弟で副社長の近江俊郎(1918年 - 1992年)にはかわいがられたという。 『日本映画俳優全集・女優編』の乱の項を執筆した小田克也は「性格は古風で律儀。映画は芝居で鍛えたせいか、どんな役でも器用にこなし、コメディを演じてもペイソスがにじみ出る」と乱を評した。『昭和桃色映画館』の鈴木義昭によれば、山本晋也が監督した『未亡人下宿』(1968年)をはじめ、小川欽也の監督作等、コメディ映画に多く出演しており、鈴木曰く「乱さんのコミカルな演技は忘れられない」という。乱自身も「喜劇以外はお芝居じゃないと思っていた」と語っている。喜劇女優としての実力を評価され、浅草松竹演芸場(1983年閉館)での『お笑い横丁』等の舞台にも起用された。
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新劇から成人映画へ
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第二次世界大戦の末期である1944年(昭和19年)、静岡県三島市に生まれる。本名は「森達也」であるが、映画作家の森達也(1956年 - )とは生年も出生地も異なり、別人である。 1960年(昭和35年)前後、千葉県習志野市の東邦大学付属東邦高等学校に進学するも、やがて同校を中途退学し、東京都渋谷区千駄ヶ谷の日本デザインスクールに籍を置き、インテリアデザインを学ぶ。俳優を志して「グループ虹の会」に入会し、演劇の芝居稽古に参加した。満21歳を迎える1965年(昭和40年)、この芝居稽古中に出逢った俳優の紹介で独立系成人映画の世界に入り、同年に公開された『性と血』という映画に出演してデビューした。同年と翌1966年(昭和41年)の出演作は記録に残っていないが、1967年(昭和42年)7月に公開された『女高生の絶叫』(監督東元薫、梅沢薫の別名)、同年10月13日に公開された『暴欲の色布団』(監督渡辺護)に出演した記録が残っている。この時期から1970年代、1980年代初頭にかけて、渡辺護・梅沢薫の両監督の作品に多く出演した。 小田克也によれば、「二枚目の風貌だが、硬軟両様をこなし、孤独でややニヒルな現代青年役がユニークな演技派」である、という。1969年(昭和44年)12月に公開された『男ごろし 極悪弁天』(監督渡辺護)では、香取環演じるところの「弁天の加代」の相手役の用心棒「英二郎」を演じ、同作はヒットをみる。配給元の関東映配の希望でその続篇『おんな地獄唄 尺八弁天』が製作され、1970年(昭和45年)6月に公開されている。国分は同作では「弁天の加代」の相手役の「セイガク」を演じたが、渡辺護の回想によれば、国分は、自らが出演したこの正続両作では、前作の『男ごろし 極悪弁天』の方が面白かったと語ったという。『おんな地獄唄 尺八弁天』は、上映用プリントが現存しているが、『男ごろし 極悪弁天』の現存は確認されていない。 1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、国分は、代々木忠が所属したプリマ企画が製作した1972年(昭和47年)6月7日公開の『性神風土記2 秘められた愛』(監督秋山駿)を皮切りに、同社の作品や、1974年(昭和49年)7月20日公開の『(秘)香港人肉市場』(監督沢賢介)、同年9月11日公開の『濡れた賽ノ目』(監督若松孝二)といった独立プロダクションの下請け作品に出演する、という形で日活配給作品にも出演した。 1972年5月に公開された『現代日本暴行暗黒史』(監督若松孝二)で主演し、「血がたぎる攻撃的な役」を演じた。同年12月に公開された、『嘆きのテレーズ』(監督マルセル・カルネ、1953年)を下敷きにした『ただれた性交』(監督渡辺護)では、テレーズ(シモーヌ・シニョレ)に当たる主演の真湖道代を相手に、ラフ・ヴァローネ演じるところのローランに当たる役を演じた。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』の国分の項目によれば、当時は少なくとも独身であった。久保新二によれば、『おんな地獄唄 尺八弁天』で脇役であった青山リマと交際説、結婚説も流れたというが、青山は1974年に25歳で引退している。野上正義によれば、国分は武藤周作とともに渡辺組(渡辺護監督作の常連役者)であり、野上や堺勝朗、松浦康、久保新二、吉田純らは、もっぱら山本組(山本晋也監督作の常連役者)であったという。 1983年(昭和58年)1月に公開された『日本痴漢大作戦』(監督飯泉大)、同年2月に公開された『犯しの淫画』(監督飯泉大)、同年5月に公開された『未亡人を犯す』(監督北見一郎)に出演した記録が残るが、その後、映画界を去る。時期は不明であるが、同年ころに死去する。満38-40歳ころの没。久保新二によれば、シネキャビンの納涼会で会ったのが最後であったという。
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