新劇から映画界へ
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1934年(昭和9年)3月10日、東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区新橋)に生まれる。 1949年(昭和24年)4月、当時日本橋兜町にあり、戦後男女共学になった東京都立紅葉川高等学校に入学、1952年(昭和27年)3月、同校を卒業、同年4月に明治大学法学部に進学する。同学在学中は演劇活動を行っていたが、健康上の理由で満21歳になる1955年(昭和30年)に同学を中途退学した。その後、豊島区西池袋の舞台芸術学院に入学、1959年(昭和34年)に同学院を卒業、俳優座スタジオ劇団同人会に入団する。1961年(昭和36年)には、河路博の劇団世代旗揚げに参加する。同年、藤田進・折原啓子が主演した『ひたすらの道』(監督大岩弘明)という独立系の映画に出演した記録が残っている。 1963年(昭和38年)1月に公開された成人映画『不貞母娘』(監督高木丈夫)に出演、同年2月24日に放映されたテレビ映画『隠密剣士 第二部 忍法甲賀衆』第8回『忍法むささび落し』(監督船床定男・田村正蔵)にゲスト出演した。当時の芸名は杉山 健である。劇団世代には、野上正義(1940年 - 2010年)が後輩におり、『隠密剣士』には、劇団世代からのちに大映テレビのプロデューサーになる川口武夫も出演していた。同作には、野上が劇団世代以前に所属した劇団NBKにいた梅沢薫(1934年 - 1998年)、あるいは劇団七曜会の伊海田弘(二階堂浩とも、1931年 - 1997年)も出演していた。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、椙山の名に触れていない。椙山が出演した『不貞母娘』は、「高木丈夫」こと本木荘二郎が監督した成人映画の2作目であり、以降、切れ目なく独立系成人映画への出演を続けた黎明期以来の俳優である。1965年(昭和40年)11月に公開された『第三の情事』前後から椙山 拳一郎と改名した。同作以降、椙山は、西原儀一の葵映画の常連俳優として、同社専属女優の香取環の相手役を数多く務めた。乱孝寿の回想によれば、新劇の道を歩んでいた女優であった乱を映画界に誘い、1967年(昭和42年)、新藤孝衛に紹介したのは、新劇界の先輩である椙山であったという。 1971年(昭和46年)、当時「杉夕子」と名のって前年から『覗かれた痴女乱行』や『セクシー・プラン』、『浮気の四角関係』等の小川欽也の監督に出演していた同僚の女優、12歳下の杉佳代子(1946年 - )と結婚する。妻の杉は1975年(昭和50年)10月28日に公開された「小川卓寛」こと小川欽也の監督作『銀行2億円事件 性男と淫女たち』で杉佳代子として復帰するまで、専業主婦として椙山を支えた。以降、業界の「おしどり夫婦」として知られ、共演作も多かった。1970年代には保谷市(現在の西東京市)ひばりが丘に居を構えた。椙山は、1982年(昭和57年)6月5日に公開された『TATTOO<刺青>あり』(監督高橋伴明)に出演、久々の一般映画出演であった。1985年(昭和60年)を最後に、椙山・杉夫妻ともに出演作が途絶える。1990年(平成2年)1月に公開された『痴漢電車 グット奥まで』(監督小川和久)が記録に残る最後の出演作であり、すでに俳優は引退している。 満77歳になった2011年(平成23年)6月19日には、特集上映「60年代まぼろしの官能女優たち PART II」のゲストとして、ラピュタ阿佐ヶ谷の舞台に立った。肺気腫の闘病中であった。 2015年(平成27年)4月死去。81歳没。
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