新劇俳優にとは? わかりやすく解説

新劇俳優に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:13 UTC 版)

上山草人」の記事における「新劇俳優に」の解説

1884年明治17年1月30日宮城県遠田郡涌谷町父・上五郎次男として、五郎愛人である角川浦路との間に生まれる。父は産婦人科病院経営していた医者で、宮城医学校教授務めた。母は涌谷町名門医者の娘であるが、草人産まれてすぐに発狂したため、草人は母と引き離され親戚の家を転々として10歳から父親宅に引き取られた。父親厳しく愛情薄い幼少期だった。生家涌谷町涌谷第一小学校前庭にあり、今でもそこにあった木が残っている。 宮城県第二中学卒業して1903年明治36年)に上京。父の友人である犬養毅宅へ寄宿し早稲田大学文科に通う。在学中テニス熱中したこの頃川上音二郎共感し、後の妻山川浦路知り合った1905年明治38年)、本郷座新派合同金色夜叉』に全身金粉塗った夜叉役で出演、これが初舞台となった1907年明治40年)、大学中退して東京美術学校日本画科に入学(後に中退)。翌1908年明治41年)に浦路との間に長男平八産まれ3月犬養仲人浦路結婚した同年11月藤沢浅二郎主宰東京俳優養成所(後に東京俳優学校)に第1期生として入所同期には諸口十九岩田祐吉勝見庸太郎田中栄三らがいる。しかし、講師桝本清衝突して排斥運動起したため、1909年明治42年)に退所させられた。その後栗島狭衣一座加わり有楽座毎週土曜日催されるお伽芝居出演また、岩藤思雪狭衣一座使って製作した児童映画新桃太郎』『カチカチ山』『牛若丸』などに出演お伽芝居には栗島すみ子田口桜村天野雉彦らも出演していた。 同年5月坪内逍遙起こした文芸協会演劇研究所開設され8月研究生補欠募集合格して入所した。妻の浦路佐々木積小林正子(松井須磨子)らの第1期生に加わり上山草人芸名とした。研究所時代土肥春曙保証人となった同年12月化粧品開発に熱心だった草人は妻と新橋で「かかしや」という化粧品店を開店草人考案した眉墨人気集めて繁盛した1911年明治44年4月研究所卒業し文芸協会加入したが、7月大阪角座『ハムレット』公演中配役上の不満からトラブル起こし夫婦ともども退会させられた。1912年明治45年5月浦路伊庭孝衣川孔雀と共に近代劇協会結成10月イプセン作『ヘッダ・ガブラーの上演で旗揚げ。翌1913年大正2年)に森鷗外訳の『ファウスト』、9月に同訳の『マクベス』上演し話題呼んだ大正時代初頭起こった新劇ブーム一翼担い草人俳優としてよりも興行主としての手腕のほうが評価された。当時7歳夏川静江発掘したも草であった。妻も芝居始めたことで、出身校女子学習院から除名騒ぎ起こされながらも、劇団運営支えた。妻公認愛人である衣川協会脱退などで、次第経済的に行き詰まり根岸興行部の陰の顧問となって苦境打開するものの、1919年大正8年2月の『リア王上演最後に協会解散した

※この「新劇俳優に」の解説は、「上山草人」の解説の一部です。
「新劇俳優に」を含む「上山草人」の記事については、「上山草人」の概要を参照ください。

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