詩歌と絵画と新劇ととは? わかりやすく解説

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詩歌と絵画と新劇と

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 15:03 UTC 版)

河原侃二」の記事における「詩歌と絵画と新劇と」の解説

1897年明治30年4月16日兵庫県赤穂郡赤穂町現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年1899年明治32年)、生地群馬県前橋市堀川町現在の同市表町)である旨が記されている。 生後東京移り東京府荏原郡品川町現在の東京都品川区)の旧制公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校現在の品川区立品川学園)に入学同校卒業して東京市芝区現在の東京都港区)の旧制正則中学校現在の正則高等学校)に入学する中途同校から、旧制群馬県立前橋中学校現在の群馬県立前橋高等学校)に編入学して、のちに同校卒業する同校在学中1914年大正3年8月萩原朔太郎筆頭参加した詩誌『侏儒』(こびと)を創刊、満17歳にして同誌の編集人となり、編集部前橋市堀川町河原宅に置いた。同誌には、当時河原深く交流し詩について薫陶受けた朔太郎のほか、北原白秋山村暮鳥前田夕暮室生犀星村田ゑん、尾山篤二郎木下謙吉、北原放二らが参加しており、同県内における最初本格的な詩誌として評価された。同誌には、すでに絵画興味があった河原による版画掲載されている。同年9月尾山篤二郎創刊し犀星朔太郎窪田空穂白秋、暮らが参加した詩誌『異端』には、河原書いた短歌掲載された。1918年大正7年)には、河原中心となって詩誌『天景』を前橋創刊萩原恭次郎らがこれに参加するその後東京戻り本郷区春木町現在の文京区本郷)に岡田三郎助設立した本郷洋画研究所洋画を学ぶ。画業中途放棄し女子文壇社、次いで報知新聞社それぞれ記者務めたその後新劇世界入って舞台俳優となり、青山杉作主宰する新劇団」、友田恭助初代水谷八重子の「わかもの座」、村山実らによる「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加した奥野信太郎指摘によれば河原は、関東大震災前の時期浅草公園六区隆盛極めた浅草オペラ」の舞台出演していたという。 1923年大正12年9月1日震災経験した後は、小山内薫土方与志の「築地小劇場」(1924年 - 1930年)、水谷竹紫初代水谷八重子1924年大正13年)に始めた第二次芸術座」、井上正夫一座それぞれ参加した。とくに「築地小劇場」では、河原はその設立メンバーであり、友田恭助東屋三郎汐見洋青山杉作ともに演技部に所属し、のちに新劇界の重鎮となっていく千田是也山本安英田村秋子丸山定夫らは当時はまだ研修生であった同年7月12日に同劇場上演したカレル・チャペック作の『人造人間』にも出演した。「第二次芸術座」による小寺融吉作、水谷八重子主演の『真間の手古奈』には赤丸役で出演している。水谷回想によれば、このときの同座陣容は、水谷河原のほか、田辺若男金平軍之助、浅野進治郎山岸静江(のちの河原崎しづ江)で、外部からの客演はなかったという。同年5月芸術座の『軍人礼讃』で河原演じたペトコフは、岸田國士に「至極愉快な人物になつてゐる」と評価された。

※この「詩歌と絵画と新劇と」の解説は、「河原侃二」の解説の一部です。
「詩歌と絵画と新劇と」を含む「河原侃二」の記事については、「河原侃二」の概要を参照ください。

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