詩歌と絵画と新劇と
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1897年(明治30年)4月16日、兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている。 生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する。中途で同校から、旧制・群馬県立前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に編入学して、のちに同校を卒業する。 同校在学中の1914年(大正3年)8月、萩原朔太郎を筆頭に参加した詩誌『侏儒』(こびと)を創刊、満17歳にして同誌の編集人となり、編集部を前橋市堀川町の河原宅に置いた。同誌には、当時河原が深く交流し詩についての薫陶を受けた朔太郎のほか、北原白秋、山村暮鳥、前田夕暮、室生犀星、村田ゑん、尾山篤二郎、木下謙吉、北原放二らが参加しており、同県内における最初の本格的な詩誌として評価された。同誌には、すでに絵画に興味があった河原による版画が掲載されている。同年9月に尾山篤二郎が創刊し、犀星、朔太郎、窪田空穂、白秋、暮鳥らが参加した詩誌『異端』には、河原の書いた短歌が掲載された。1918年(大正7年)には、河原が中心となって詩誌『天景』を前橋で創刊、萩原恭次郎らがこれに参加する。 その後、東京に戻り、本郷区春木町(現在の文京区本郷)に岡田三郎助が設立した本郷洋画研究所で洋画を学ぶ。画業は中途で放棄し、女子文壇社、次いで報知新聞社でそれぞれ記者を務めた。その後、新劇の世界に入って舞台俳優となり、青山杉作の主宰する「新劇団」、友田恭助・初代水谷八重子の「わかもの座」、村山実らによる「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加した。奥野信太郎の指摘によれば、河原は、関東大震災前の時期に浅草公園六区で隆盛を極めた「浅草オペラ」の舞台に出演していたという。 1923年(大正12年)9月1日の震災を経験した後は、小山内薫・土方与志の「築地小劇場」(1924年 - 1930年)、水谷竹紫・初代水谷八重子が1924年(大正13年)に始めた「第二次芸術座」、井上正夫一座にそれぞれ参加した。とくに「築地小劇場」では、河原はその設立メンバーであり、友田恭助、東屋三郎、汐見洋、青山杉作ともに演技部に所属し、のちに新劇界の重鎮となっていく千田是也、山本安英、田村秋子、丸山定夫らは当時はまだ研修生であった。同年7月12日に同劇場が上演したカレル・チャペック作の『人造人間』にも出演した。「第二次芸術座」による小寺融吉作、水谷八重子主演の『真間の手古奈』には赤丸役で出演している。水谷の回想によれば、このときの同座の陣容は、水谷や河原のほか、田辺若男、金平軍之助、浅野進治郎、山岸静江(のちの河原崎しづ江)で、外部からの客演はなかったという。同年5月、芸術座の『軍人礼讃』で河原が演じたペトコフは、岸田國士に「至極愉快な人物になつてゐる」と評価された。
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