新派劇へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:13 UTC 版)
「水谷八重子 (初代)」の記事における「新派劇へ」の解説
水谷八重子は1945年(昭和20年)の解散まで第二次芸術座の屋台骨を支えた。空襲で自宅を焼かれ、終戦は静岡県熱海市で迎えて、この頃女優引退を考えていたが、松竹の大谷竹次郎社長に促され、1946年(昭和21年)東京劇場に出演、舞台復帰を果たした。これ以後は、夫と共演したり、地方巡業に出たりもした。1949年(昭和24年)、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加する。夫の守田勘彌とはのちに正式離婚、好重は八重子が引き取った。 以後、劇団の看板を花柳と共に支え、次々と名女形が没していったのちは、彼らの残した新派演目の女主人公の芸を継承した。また、新劇の演出家、菅原卓の指導の下、滝沢修、森雅之らと共演、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。 1962年(昭和37年)、舞台『黒蜥蜴』直後にガンを発症。1965年(昭和40年)には花柳が死去する。これらを契機として水谷は新派の舞台に専念するようになる。水谷良重や菅原謙次など若手俳優の相手役を勤めながら、その育成に心血を注いだ。 以後度重なる癌の再発・転移という逆境を乗り越え、水谷は自身の舞台活動と新派の後続世代の指導に精進した。1973年(昭和48年)には「舞台生活60年」を記念して自らの当たり役の中から10種を撰じて「八重子十種」として、翌年記念公演を持った。 1979年(昭和54年)、乳癌が進行して公演中に倒れ、同年10月1日に東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去、74歳だった。従四位に叙された。墓所は築地本願寺和田堀廟所、戒名は水月院釈尼春光。
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