新派閥経世会の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:42 UTC 版)
1985年(昭和60年)2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。 やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つにわかれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。 このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、のちに民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。 このころ新人代議士となった武村正義・石破茂は田中派新人候補として衆院選出馬を希望したが滋賀県全県区山下元利・鳥取県全県区平林鴻三がそれぞれの選挙区で田中派現職だったため、武村には安倍派会長安倍晋太郎を、石破には中曽根派幹部渡辺美智雄を紹介し国政進出のチャンスをあたえた。
※この「新派閥経世会の誕生」の解説は、「竹下登」の解説の一部です。
「新派閥経世会の誕生」を含む「竹下登」の記事については、「竹下登」の概要を参照ください。
- 新派閥経世会の誕生のページへのリンク