新派俳優へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 21:21 UTC 版)
1881年(明治14年)6月15日、愛媛県下浮穴郡大南村(後に下浮穴郡砥部村、現在の伊予郡砥部町大南)中通に父・春吉と母・タイの長男として生まれる。父の春吉は砥部焼仲買人で、砥部座という劇場の支配人でもあった。 1891年(明治24年)、11歳の時に初めて村芝居に出演。尋常小学校卒業後、砥部焼の陶器店へ丁稚奉公させられるが、1895年(明治28年)に家出。翌1896年(明治29年)に大阪で働いていた時に道頓堀角座で成美団の芝居『百万円』を観て俳優を志す。 1897年(明治30年)4月、松山市の新栄座に来演していた新演劇の敷島義団に入り、小坂幸二を名乗って初舞台を踏んだ。ついで矯風会に入り、品川進と改名。1898年(明治31年)には博多で酒井政俊一座に加わり、井上政夫の名で舞台に立つ。その後幾つかの劇団を転々とする内に高田実の知遇を得、1902年(明治35年)に京都の村田正雄一座に加入。 1904年(明治37年)1月に上京、真砂座の伊井蓉峰一座に加入し、幹部待遇となる。翌1905年(明治38年)、田口掬汀作『女夫波』の橋見秀夫役で人気を得、1906年(明治39年)には島崎藤村作『破戒』の瀬川丑松役に大抜擢された。当時は伊井の真砂座と高田・河合武雄の本郷座がファンの人気を二分しており、真砂座の井上も人気俳優の一人となった。1907年(明治40年)1月、伊井と新富座へ移り、井上正夫と改名する。 1910年(明治43年)11月、新しい演劇を目指して新派劇を離れ、有楽座と契約して新時代劇協会を結成する。第1回公演はバーナード・ショー作の『馬盗坊』で、同協会には小堀誠、立花貞二郎、岩田祐吉、酒井米子らが参加した。旧来の演劇に抗して女優を起用するなど新機軸を打ち出すも、一般大衆の支持を得るにはいたらず、経済的には赤字となり、1911年(明治44年)に3回目の公演をもって解散した。解散後は新派に戻っている。
※この「新派俳優へ」の解説は、「井上正夫」の解説の一部です。
「新派俳優へ」を含む「井上正夫」の記事については、「井上正夫」の概要を参照ください。
- 新派俳優へのページへのリンク