新洪水線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 04:57 UTC 版)
1815年にワーテルローの戦いでナポレオンを敗北させた後、オランダ連合王国が作られた。ヴィレム1世が洪水線を最新化しようと決めた後、この新たな洪水線はユトレヒトの東側に一部移動した。次の100年でオランダの洪水線は、19世紀にさらに拡大されつつ近代化された新洪水線となった。これには、イギリスのマーテロー塔を連想させる円筒型の砦を含んでいた。 この防衛線は、1870年の普仏戦争と第一次世界大戦において、動員され準備されたが、使用されることはなかった。第二次世界大戦において、洪水線の土とブロックによる要塞化は、最新の砲兵と爆弾に対して長い包囲を持ちこたえるには弱すぎた。この点を補強するため、多数のトーチカが作られた。しかし、オランダはより東側にある防御線(グレッベ防衛線)を使用することに決めて、予備として洪水線を使用することにした。グレッベ防衛線が5月13日に突破された時、陸軍は洪水線に撤退した。しかし最新の戦術では、強固な固定防御線(例えば、フランスのマジノ線)は迂回し、包囲にとどめることができた。オランダ軍がグレッベ防御線で守りを固めて戦う間、ドイツ軍の空挺部隊はホラント要塞の中央であるムールダイク、ドルトレヒト、ロッテルダムを奇襲し、その南との接続点にある主要な橋を占領することができた。抵抗が続いたため、ドイツ軍はロッテルダムを空爆し、オランダ軍を降伏させた。さらに、同様の脅しをユトレヒトとアムステルダムに行なった。そのため、1940年5月におけるオランダの戦いでは、洪水線は何の役割も果たさなかった。 第二次世界大戦の後、オランダ政府はソビエト軍の侵入に対応するために、洪水線の考えを再度検討した。この3番目の洪水線は、より東のヘルダーラントにおけるアイセル川に設定された。ソビエト軍の侵攻時には、ライン川とワール川から水がアイセル川に流れ込み、川とその周囲の地域を氾濫させる予定であった。この計画は実行されること無く、1963年にオランダ政府により中止とされた。
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