「征服」の捉えられ方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:45 UTC 版)
「1760年の征服」の記事における「「征服」の捉えられ方」の解説
ケベックでは、長い間、1760年の征服に関しては、イギリスよりな見方をされていた。神はケベック征服を許したもうた、ケベック人を、フランス革命の恐怖から免れさせ、カトリック信仰を保つために。共和制、世俗主義、そして無神論は、アメリカ大陸の「選ばれしもの」からは永遠に遮断され、カトリックの布教を、物質的かつ異教的なアメリカに広げるのだ。こういう、征服を肯定的に取る見方が支配的であった。 歴史家の、ミシェル・ブルネは、征服は大きな災害であり、フランス系は、極論すれば、イギリスによるビジネスの異民族労働者という点で、注目されるべきとしている。フェルナン・ウーリエは、征服による悪影響は軽視されており、征服の影響があまり感じられない、経済発展や文化などの指摘ばかりが重視されていると言う。 しかし多くの歴史家は、イギリスによる征服がなかったら、ケベックは、フランス革命での無神論、恐怖政治に見舞われただろうと考えている。また、ナポレオンは、戦費不足でルイジアナをアメリカに売却している。このことから、ケベックは、イギリスの征服がなかったとしても、アメリカの一部になっていたのではないかとする見方もある。 フレンチ・インディアン戦争に負けたのは、イギリス領の兵がフランスのそれより多かったからという見方もある。イギリスは本国は小さく、フランスに比べると土地も痩せていた。これが新大陸への移住のきっかけになった。また、16世紀末から17世紀初めにかけて、名誉革命のような社会改革と、宗教界の混乱から、本国を後にするイギリス人が増えたと言うのである。フランスにはこういう理由がなかった。国土は豊かで、人口を養って行くことができた。宗教に関して言えば、清教徒がらみで16世紀の後半に問題が起こったものの、しかしフランス王室は教会に対して忠誠であり、多くの人々はそれをお手本とした。宗教戦争は一過性のものであり、いつまでも秩序が乱れることもなかった。イギリス人ほど植民地への執着はなかった。 また、同じイギリスの従属植民地のアイルランドとの、こういう比較もある。 ケベックの場合は、イギリス人が入植してきた時には、同化が不可能な別の白人社会(フランス人社会)が既に存在しており、イギリス人は、英国型の社会を実現するのが難しくなっていた。アイルランドの場合は、土着のケルト人がカトリック、地主がカトリックのイギリス人(オールド・イングリッシュ)とプロテスタントのイギリス人(ニュー・イングリッシュ)という構造になっており、かつてカトリックに対して、露骨なまでに嫌悪感を示したニュー・イングリッシュは、イギリスとの絆を断ち切れず、彼らが多く支配していたアルスター地方が、今も北アイルランドとしてイギリス領となっている。ケベックの場合、イギリス人支配となった時点では、カトリックとプロテスタントの対立は弱まっており、また、18世紀の時点で独立国家を築けていなかったケルト人を、イギリス人は低く見たが、何世紀にもわたってヨーロッパの覇権を争ってきたフランス人をおろそかにはできなかった。 また、イギリス人がほしかったのは、商業権であり、ケベックはその後も、カトリック教会を頂点とした農村社会を保ちつづけた。1837年に、イギリス統治に対する反乱が起こり、解決方法として、ローワーカナダ(ケベック)とアッパーカナダ(オンタリオ)を結合し、フランス系をイギリスに同化させようとしたが、逆効果だった。1867年の連邦結成により、両者は再びケベックとオンタリオに戻り、しかも自治権付きの州の地位を得たのである。この時以来、1960年代の静かなる革命まで独立の気運は高まらなかった。1980年と1995年とに、ケベック独立の是非を問う選挙が行われたが、半分近くは否定的であった。 こういったことから、自治権の付与、ケベックの影響力の大きさ、アイルランドのような、土地制度が社会不安につながるような要因がなかったことなどが、ケベックが独立にまで至らなかった理由と考えられる。また、フランス系がカナダ全土に広がったこと、アメリカのような、国家レベルでの同化が、カナダはより寛容であったのも大きい。
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