イギリスによる統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 07:59 UTC 版)
1809年10月2日、英国艦隊がザキントス沖でフランス艦隊を破った。イギリスは同年のうちにケファロニア島・キティラ島・ザキントス島を、翌1810年にはレフカダ島を占領した。フランスは1814年にケルキラ島を放棄し、1815年の第二次パリ条約によってイオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands, Ηνωμένον Κράτος των Ιονίων Νήσων)がイギリスの保護国として樹立された。イオニア諸島合衆国では憲法の制定が認められ、住民からなる定数40の議会が設けられるとともに、英国の高等弁務官に助言をおこなうことが認められた。 この時期にイギリス式の教育、司法制度が整えられ、住民は英国式に午後の紅茶を楽しみクリケットに興じるようになった。1850年、イギリス施政下のレフカダ島で小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が生まれている。彼の父はイギリス軍医、母はキティラ島出身のギリシャ人だった。ラフカディオというミドルネームは同島にちなんでつけられた。 ギリシャ独立戦争により1830年にギリシャ王国が建国されると、イオニア諸島でもギリシャ王国への統合(ΕΝΟΣΙΣ)が叫ばれるようになった。イオニア諸島を訪れたウィリアム・グラッドストンは諸島のギリシャへの返還を提案したが英国政府はこれを拒否した。政府はギリシャ国王に選ばれたドイツ生まれのオソン1世を警戒しており、またヴェネツィアと同じように島々が艦隊基地として有用だと考えていた。
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