イギリスによる蚕食とインドの貧困化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)
「インドの歴史」の記事における「イギリスによる蚕食とインドの貧困化」の解説
詳細は「マイソール戦争」を参照 18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。 1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は打撃を受け徐々に衰退していく。しかし、19世紀半ばになりジャムシェトジー・タタによって近代的な綿業がインドでも勃興しはじめる。資本金100万ルピーでボンベイにスワデシ・ミルを設立。この会社は従来のインドの機械製綿工業が国内市場向けの低級綿布と中国市場向けの綿糸の生産に特化してきた慣例を打破し、イギリスが独占的に手がけてきた上級綿布の生産にインド人経営企業として初めて参入した点で画期的であった。さらに、1793年のザミーンダーリー制、19世紀前半のライーヤトワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。 19世紀に入ると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大させインドや中国と独占貿易を行った。イギリス東インド会社活動停止後の19世紀後半には、灌漑事業よりも鉄道建設事業を最優先とした。当初これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く、軌道の幅もまちまちで欠損が多かった。開発資金として、インド帝国の税収やロンドン市場の鉄道公債をもとに投資されたが、これから得られる利益の多くはイギリス本国に流出した。
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