ポーランド・ドイツ関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/09 10:14 UTC 版)
「ドイツ・ポーランド関税戦争」の記事における「ポーランド・ドイツ関係」の解説
第一次世界大戦後、ドイツは国土の東部にあたるポーゼン州や西プロイセンをポーランドに割譲した。元をたどればこの地域はポーランド分割の際にプロイセンがポーランドから奪った地であり、大戦末期にはポーランド人の蜂起が発生していた。これ以外のポーランド要求地の行く末は、東プロイセン住民投票や上シュレージエン住民投票などといった住民投票にゆだねられることになった。こうしたドイツ領ポーランドには15万4000人のドイツ人入植者が暮らしており、これに加えて37万8000人のドイツ将兵が駐屯していた。 戦間期初期、ドイツは第二共和制ポーランドを「一時的な国家」(ザイゾンシュタート)などと呼んでおり、両国間の緊張が高まっていた。ドイツは国際的に取り決められた両国間の国境を一切承認せず、1919年のヴェルサイユ条約締結後から、条約改定とポーランドに奪われた領土の奪還に向けて動き出した。ドイツは領土回復を達するために、ポーランド領となった地域にドイツ人が居住していることを強調した。シロンスク(シュレージエン)や旧ドイツ領ポーランドに住んでいた「民族的ドイツ人」の中で、ポーランド人になることを選択したのはごく少数だった。大部分はドイツ市民権を取って土地を離れることを選択(opt)した。彼らの集団はオプタンテン(Optanten)と呼ばれた。1924年には、ドイツの置かれた立場は内外ともに好転しつつあった。1924年8月30日のウィーン会談で、ドイツ・ポーランド領政府はポーランドに住みながらドイツ市民権を選んだドイツ人(オプタンテン)28,000人–30,000人と、ドイツに住みながらポーランド市民権を選んだポーランド人(オプタンツィ)5,000人を交換することで合意した。ドイツは1926年に国際連盟加盟も果たし、ポーランドに対する優位を固めていった。 ポーランド政府は、厳しいポーランド市民権付与の基準を維持しようとした。戦後の混乱でポーランドに残っていたドイツ人(主に、ポーランド領内に駐留していた軍人や役人)は潜在的なオプタンテンと見なされた。 ポーランドで締結された少数者条約(小ヴェルサイユ条約)で、ポーランド国内にいる旧宗主国の市民権保持者のうち、ポーランド市民権を拒否した者は、1923年1月10日までに国外退去するよう迫られた。 ヴェルサイユ条約によって、ポーランドを含む戦勝国は、ドイツ人の資産を清算する権利を与えられていた。ヘルムート・リッペルトは、ドイツがポーランドに住む少数派ドイツ人を、ポーランドへの報復主義的な目的のために政治利用したと述べている。1923年、ポーランド首相ヴワディスワフ・シコルスキは、精力的かつ早急にドイツ人の資産を清算し、オプタンテンを立ち退かせることで、新領土において続いてきたドイツ化を終わらせなければならないと主張した。しかしドイツ人住民は、ポーランド政府の西部国境に関する主張に不満を持っていた。ポーランドの強硬姿勢に対し、ドイツ政府の反ポーランド感情にも火が付いた。 1925年、ロカルノ条約を結んだドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンは、東部国境を平和的に改変する自由をフランスから認められた。またシュトレーゼマンは、ポーランド経済の安定につながるようなあらゆる国際組織への関与を拒否した。彼は駐ロンドン大使に向けて、「最終的なポーランドの再構成は、国境が我らの意に従って定まるまで、また我らの立場が十分に強まるまで待たねばならない」、また国境が定まるというのは「ポーランド経済・金融の不安が極度に高まり、ポーランドの政治力が無力と言える状態に落ちるまで」起こらない、などと書き送っている。ただし、シュトレーゼマンには経済戦争を起こす意図はなかった。しかしドイツの新聞はあからさまに経済戦争を煽り、ポーランド国家の崩壊を求めた。フランクフルター・ツァイトゥング紙は、1924年6月14日の記事で「ポーランドは経済戦争の末に致命傷を負うに違いない。その血とともに力が流れ出て、最後には、その独立も(失われるだろう)。」と書いている。
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