ポーランド・リトアニアの時代
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「バルト・ドイツ人」の記事における「ポーランド・リトアニアの時代」の解説
現ポーランド北東部では反ドイツ騎士団の感情が起こったため、騎士団と何世紀もの間抗争を繰り返した。14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、僧侶と1440年にプロイセン連合を組織、ポーランド・リトアニア連合とプロイセン連合はドイツ騎士団と戦い、15世紀にはドイツ騎士団の勢力はこの戦争で弱まった。1466年に締結された講和条約(第二次トルニの和約)によってポーランド王国は西プロイセンを獲得(王領プロイセン)、ドイツ騎士団を東プロイセンへと追いやりドイツ騎士団国を支配した。プロイセン連合に加盟する全ての都市と領土は、ポーランド王を宗主とした自治権を獲得した。リヴォニア(リヴォニア公国(英語版))はドイツ騎士団に従属し、クールラント(クールラント・ゼムガレン公国)はリヴォニアに従属した。リヴォニア議会は1561年、ポーランド王兼リトアニア大公ジグムント2世アウグストの庇護を求め、以後リヴォニアとクールラントはポーランド・リトアニア共和国に直接従属、自治を得た。1525年、ドイツ騎士団国はホーエンツォレルン家の公を君主とするプロイセン公国へと転換し、135年後の1660年、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はプロイセン公国をポーランド・リトアニア王国から独立させた。 1558年、モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)のリヴォニア侵略はモスクワ国家、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国、デンマークの間で20年続いたリヴォニア戦争から始まった。リヴォニアは1621年のスウェーデン・ポーランド戦争によって1629年に分割された。北部リヴォニアを征服したスウェーデンは、エストニアと同じくリヴォニアの自治権を維持させている。南部のラトガレはポーランド領リヴォニア(インフランティ公国(英語版))として残留した。北部リヴォニアは1660年にスウェーデン領リヴォニア(英語版)として正式にポーランドから離脱後、すでに北部リヴォニアは1629年から1721年の大北方戦争終結による全ロシア領化までスウェーデンの時代に入っていた。また、バルト・ドイツ人の現地支配は、いずれの勢力に属していても維持していたが、ラトガレ地域のみはポーランドの直接統治下となり、他のバルト・ドイツ人の居住地域とは異なった道を歩んだ。デンマークは、サーレマー島を獲得し、スウェーデンはエストニアを獲得した。
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