ポーランド・リトアニア共和国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 08:58 UTC 版)
「ヴィリニュス大学」の記事における「ポーランド・リトアニア共和国時代」の解説
1568年、リトアニアの貴族がヴィリニュスまたはカウナスにおける高等教育機関の設立をイエズス会に要請した。翌年、ヴィリニュス司教の Walerian Protasewicz が街の中心にある複数の建物を購入し、1570年、コレギウム(高等学校)を創設した。設立された当初、コレギウムには人文科学(文法、修辞、論理の三学科)、哲学、神学の3つの部門があった。最初に学生が在籍したのはコレギウムが創設された1570年のことで、この年には160人の学生が在籍した。同じ年には大学図書館も設立され、ジグムント2世によって2,500冊の本が寄贈されている。教育はラテン語によって行われていた。なお、その後17世紀初頭にはリトアニア語を母語とする学生にラテン語を教えていたという記録も残っており、またそこではコンスタンティナス・シルヴィーダスが編纂した辞書が用いられていたと考えられている。 1579年4月1日、ポーランド王兼リトアニア大公のステファン・バートリがコレギウムを昇格させ、クラクフ・アカデミー(今日のヤギェウォ大学)と同等の大学として認めた。これが大学としてのイエズス会ヴィルノ大学アカデミー(ラテン語: Academia et Universitas Vilnensis Societatis Jesu)の正式な創設である。彼の布告は、1979年10月30日、教皇のグレゴリウス13世にも認められている。大学に昇格してからは、東方へのカトリック布教の拠点として機能していくこととなった。初代学長はピョートル・スカルガ (Piotr Skarga) 。彼はヨーロッパ各地から科学者を呼び集め、図書館を拡充し、ジグムント2世など多くの支援者を集めた。学生の3分の1はリトアニア人(1568年時点で約700名)で、その他ドイツ人、ポーランド人、スウェーデン人、さらにはハンガリー人の学生もここで学んだ。 1575年、ミコワイ・クシシュトフ公らの支援により大学に印刷所が完成した。これはこの地域で最も古い印刷所の一つで、ここではラテン語やポーランド語による本が印刷され、さらに1595年には、リトアニア語で書かれた、リトアニア大公国で印刷されたものでは現存する最古の本もここで印刷されている。この本は『Kathechismas, arba Mokslas kiekvienam krikščioniui privalus』と題され、ミカロユス・ダウクシャ (Mikalojus Daukša) によって書かれた。 アカデミーは17世紀まで発展を続けた。しかし、後に大洪水時代と呼ばれることとなる17世紀後半には、入学が許可された学生の数は劇的に減少し、教育の質も落ちた。18世紀半ばになると、アカデミー当局はアカデミーを復活させようと努めた。例えば、1753年には Tomasz Żebrowski によって、ポーランド・リトアニア共和国で最初の天文台が作られている。これはヨーロッパでも4番目に古い専門施設である。イエズス会の制度が衰退し1773年にはイエズス会が廃止されたため、その年には世界で最初の文部省とも言える国民教育委員会(ポーランド語: Komisja Edukacji Narodowej)がアカデミーを監督するようになり、その結果アカデミーは近代的な大学へと変革していった。 Marcin Odlanicki Poczobutt 学長の尽力により、1783年、アカデミーに「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}拠点学校[訳語疑問点]」(ポーランド語: Szkoła Główna)の地位が与えられ、リトアニア大公国拠点学校[訳語疑問点](ラテン語: Schola Princeps Magni Ducatus Lithuaniae)と名称変更された。
※この「ポーランド・リトアニア共和国時代」の解説は、「ヴィリニュス大学」の解説の一部です。
「ポーランド・リトアニア共和国時代」を含む「ヴィリニュス大学」の記事については、「ヴィリニュス大学」の概要を参照ください。
ポーランド・リトアニア共和国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 04:41 UTC 版)
「ラトビアの歴史」の記事における「ポーランド・リトアニア共和国時代」の解説
1557年9月、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(のちのポーランド・リトアニア共和国)は、安全保障条約を締結した。ロシア・ツァーリ国のイヴァン雷帝はこれをリヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、リヴォニア侵攻を開始、ここにリヴォニア戦争が始まるが、20年に渡るこの戦争でリヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合は侵略者たちを撃退した。その期間の1561年、リヴォニア帯剣騎士団は解散して世俗の国家であるリヴォニア公国(英語版)となり、ポーランド・リトアニア連合の構成国であるリトアニア大公国に加盟した。リヴォニア帯剣騎士団の最後の総長ゴットハルト・ケトラーは、リヴォニア公国の南部一帯に成立した下位国家クールラント・ゼムガレン公国の公爵となった。このポーランド・リトアニアに加盟したリヴォニアはその黄金時代を迎える。
※この「ポーランド・リトアニア共和国時代」の解説は、「ラトビアの歴史」の解説の一部です。
「ポーランド・リトアニア共和国時代」を含む「ラトビアの歴史」の記事については、「ラトビアの歴史」の概要を参照ください。
- ポーランド・リトアニア共和国時代のページへのリンク