ポーランド人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)
「マリ・キュリー」の記事における「ポーランド人として」の解説
父方も、母方も、マリの一族はポーランド人の国民運動の中で地位や財産を失った。これはマリや彼女の兄や姉たちにも苦難として襲いかかるものとなった。小学校では査察官が来ては生徒にロシア皇帝の賛辞をしゃべらせる。優秀なマリはたびたびこの役を指名されたが、それは大変な屈辱だった。マリの父はロシア人上司と対立し公職を追われ、貧窮に落ちた生活苦が母と姉の一人を亡くす要因となった。 それでも愛着があるポーランドで生涯を過ごすことを考えていたマリは、パリに出てからも帰国するつもりでいた。彼女はピエール・キュリーという伴侶を得てフランスに定着するが、故郷を忘れることはなかった。1898年、マリは初めて見つけた新元素にポロニウムと名づけた。これは、18世紀中に彼女の故郷はロシアやプロイセン、オーストリアなどに蹂躙され独立できずにいるポーランドへ世界の目を向けようとする考えがあった。マリによって、ポロニウムは政治的な意図を含んだ名称がつけられた初めての元素となった。 フランス世論は外国人に向ける目は厳しく、差別の対象にもなっていた。その背景にはドレフュス事件が影響したとも言われる。ピエール一家など常に彼女の味方をした人々もいたが、後半生のマスコミとの対立には苦しめられた。それでも矜持を忘れず、また娘たちにもポーランド語を習得させるなどの教育を施した。 しかし、マリは決してフランスを蔑ろにした訳ではなく、第一次世界大戦時の活動や戦債購入などで示される通り、フランスを「第二の故郷」と考えていた。ポーランドに戻る機会は何度もあったが、ピエールの研究所を世界随一にするために努力し、彼女は骨をフランスに埋めた。
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