8,000メートル峰への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:16 UTC 版)
「ヴァンダ・ルトキエヴィチ」の記事における「8,000メートル峰への挑戦」の解説
ルトキエヴィチは1976年に、ナンガ・パルバットに並々ならぬ執念を燃やしたことで知られる西ドイツの医師ヘルリヒコッファー(ドイツ語版)により、ナンガパルバット南西稜ルートからの登頂を目指すヘルリヒコッファー隊の隊長に指名された:191。しかしながら、当初、ヘルリヒコッファーの部隊に加わる意志を示していたハンス・シェル(ドイツ語版)が独自にオーストリア隊を組織して先にパキスタン政府に許可を得、南西稜ルート登頂に成功した:191。ルトキエヴィチは隊を率いて第二登を試みたが、隊員の一人が転落死したことに動揺し、登頂を中止した:191。ヘルリヒコッファーは「ルトキエヴィチには隊長に必要な厳格さに欠けていた」という厳しい評価をした:191。 ルトキエヴィチは、1978年にエベレスト登頂に成功した。田部井淳子と潘多(中国語版)に続く史上3番目の女性による登頂、ポーランド人としては初である。1985年にはナンガ・パルバットに女性だけのパーティで挑み、登頂に成功した。 ルトキエヴィチは1986年にK2に挑み、登頂に成功した。女性第一登である。1986年のK2は、ルトキエヴィチの女性第一登のほか、24時間以内の登頂記録や新ルート開拓があり、登頂者が過去最高の27人という記録的な年になったが、シーズンを通して13人が亡くなり、悲惨な遭難事故もあったので、登山山岳史上、「暗い夏」(Black Summer)として記憶されている(詳細は、1986年のK2における大量遭難(英語版)参照。):56-58。ルトキエヴィチはリリアヌとモリスのバラール夫妻(英語版)、さらにもう一人のフランス人男性とパーティを組み、シーズン開始直後からアルパイン・スタイルで山頂を目指した。4人は頂上に立ったが消耗が激しく「ボトルネック」と呼ばれる頂上近くの狭隘部で一泊した:56-58。このため翌日の吹雪につかまってしまい、降下中にバラール夫妻が行方不明になった。夫妻は吹雪で道を見失ってしまったものとみられる:56-58。これにより、記録上はルトキエヴィチが単独で、最初にK2登頂に成功した女性とされている。なお、この年、リリアヌ・バラールとルトキエヴィチのほかにも、イギリス人女性のジュリー・トゥリス(英語版)がK2に登り、頂上に立ったが、やはり降下中に力尽きて死亡した。 ヴァンダ・ルトキエヴィチは、ある時点から、女性初の8000メートル峰全14座制覇を目標にしていた:79-90。しかし、49歳で挑んだ9座目のカンチェンジュンガが最後の8,000メートル峰へのチャレンジになった:79-90。以下に、ルトキエヴィチの登頂記録とその達成年を示す。 1978年 - エベレスト 1985年 - ナンガ・パルバット、ディアミール壁(女性のみのパーティ) 1986年 - K2 1987年 - シシャパンマ、南稜ルート 1989年 - ガッシャーブルムII峰 1990年 - ガッシャーブルムI峰 1991年 - チョ・オユー(単独) 1991年 - アンナプルナI峰、南壁(単独) 1992年 - カンチェンジュンガ(登頂の可能性あり)
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