ドイツ帝国建国
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1871年のドイツ帝国建国の際、最大かつ最有力な地域がプロシア(プロイセン)であった。すなわち、その領域であった東ブランデンブルク、シレジア、ポメラニア、およびプロイセン地域やポズナン(ポーゼン)は、1871年の建国以来のドイツ帝国領であった。後にこの領域はドイツで「ドイツ帝国東部領土」(Ostgebiete des deutschen Reiches)と呼ばれることになる。 ポーゼン州中央部および東部や@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上部シレジアの東南部、あるいは西プロシアの西部(後にポーランド回廊となる地域)といった一部の地域では、人口の過半はポーランド人が占めており、それに対して他の地域は[要出典]ドイツ人が多数を占めていた。 しかし、帝国議会の主要勢力であるカトリック中央党が徐々に、そしてのちには露骨にポーランド語話者の権利を否定するようになると、ドイツ帝国議会およびプロイセン王国議会のポーランド人議員であるヴォイチェフ・コルファンティは、本来はコスモポリタニズム(超国家市民主義)であったはずのカトリック教会やカトリック中央党がドイツ民族主義の道具として利用されていることを悟り、党から離脱、上シレジア地方などのポーランド語話者および既に生活がドイツ化しドイツ民族として登録されていた膨大なポーランド系ドイツ帝国臣民に対し、ポーランド人としての民族覚醒を強力に訴えた。ブレスラウ(現ヴロツワフ)のブレスラウ大学ではコルファンティはドイツ民族のうちに自身の政治思想の理解者たちを見つけた。コルファンティに対する強力なドイツ人支持者たちのなかには、当時ブレスラウ大学の助教授で、のちにベルリン大学の教授となる、マックス・ヴェーバーと並び称されるドイツ社会学者ヴェルナー・ゾンバルトがいたのである。[要出典]
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