ドイツ帝国成立とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 14:13 UTC 版)
「大ドイツ主義」の記事における「ドイツ帝国成立とその後」の解説
しかし統一戦争での成功は、両国に再びドイツ統一主導権争いを招来させる。プロイセンは、オーストリアを排除した統一を目論むようになった。直接の原因は、取得したシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の領有を巡る問題であったが、それはすぐにドイツ統一の主導権を巡る争いへと結びついた。1866年、両国は普墺戦争を起こし、プロイセン王国がわずか7週間でオーストリア帝国を屈服させた。 この結果、オーストリアを盟主としたドイツ連邦は解体され、翌1867年にプロイセンを盟主とした北ドイツ連邦が成立した。普墺戦争は、ドイツ統一を小ドイツ主義による統一国家「ドイツ帝国」へと導いた。しかし、大ドイツ主義であったオーストリアの一千万人のドイツ人は、ドイツ統一から排除され、国外へと取り残された。 その後、オーストリアはハンガリー人との妥協(アウスグライヒ)によってオーストリア=ハンガリー帝国となり、加えて産業革命で力をつけ始めたチェコ人や民族主義によってロシア帝国との結びつきを強め始めたスラヴ人などが勢力を伸張し始めると、ゲオルク・フォン・シューネラーの汎ドイツ運動など大ドイツ主義が再び力を持ち始めた。決定的となったのは第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア・ハンガリーの解体で、帝国の解体はオーストリアのアイデンティティを喪失させると共に没落を意味していた。しかし彼らには、ドイツと共にオーストリアもまたドイツ人であると言うアイデンティティが残された。オーストリア単独の国家として独立したことは、再びドイツの統一の機運の高まりであった。しかし戦勝国である連合軍は、この統一運動を大ドイツ主義の再来として危惧し、ドイツ・オーストリアの統一の悲願は、列強によって阻止された(ヴェルサイユ条約などによるアンシュルス禁止)。両国の合併が列強によって阻止された事は、ドイツ・オーストリアの政情を悪化させ、混迷の渦中からナチス・ドイツの台頭を許す結果となった。特に最高指導者ヒトラーは、零落していく母国への帰属意識を持ちきれずにドイツ民族意識を肥大化させたオーストリア人の一人である。
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