ドイツ帝国海軍とスカパ・フロー
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「スカパ・フロー」の記事における「ドイツ帝国海軍とスカパ・フロー」の解説
詳細は「スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈」を参照 第一次世界大戦でドイツが休戦を受諾すると、ドイツ艦隊の74隻がスカパ・フローに回航され、講和条約締結を待った。1918年の11月に到着したこれらの艦船はスカパ・フロー泊地内に抑留され、観光客の目玉となった。1919年5月に発表された講和条約案の内容に悲憤した抑留艦隊司令官ルートヴィッヒ・フォン・ロイター (Ludwig von Reuter) 提督は英国への艦隊引渡しを拒むためにイギリス艦隊の大部分が演習に出た隙をついて1919年6月21日に全艦艇に自沈を命令した。この際にイギリス軍との衝突で9名の死者が出た。これは第一次世界大戦における最後の戦死者とされている。 自沈したのは以下の艦船である。 戦艦:バイエルン (Bayern) 、ケーニヒ (König) 、グローサー・クルフュルスト (Großer Kurfürst) 、マルクグラーフ (Markgraf) 、クローンプリンツ・ヴルヘルム (Kronprinz Wilhelm) 、カイザー (Kaiser)、フリードリッヒ・デア・グローセ (Friedrich der Große) 、カイゼリン (Kaiserin) 、プリンツレゲント・ルイトポルト (Prinzregent Luitpold) 、ケーニヒ・アルベルト (König Albert)。 巡洋戦艦:デアフリンガー (Derfflinger) 、ヒンデンブルク (Hindenburg)、ザイドリッツ (Seydlitz) 、モルトケ (Moltcke) 、フォン・デア・タン (Von der Tann)。 巡洋艦:ケルン (Köln) 、ドレスデン (Dresden) 、カールスルーエ (Karlsruhe) 、ブルマー (Brummer)、ブレムゼ (Bremse)。 駆逐艦多数 戦艦バーデン (Baden) 、巡洋艦エムデン (Emden)、ニュルンベルク (Nürnberg) 、フランクフルト (Frankfurt) は自沈に失敗した。 1920年代に入り、アーネスト・コックスらの手により43隻の船がサルベージされた。 比較的小さな艦船については浮きと錨鎖を使い浮上させた。28,000トンにもなるヒンデンブルクについては、爆破により開いた穴を全て塞ぎ船殻に圧縮空気を導入して浮力をつけさせた。8隻の船は現在もスカパ・フローに沈んでおり、ダイビングスポットとして親しまれている。 その後更に多くの沈船、またはその一部が引き上げられ人工衛星などに利用されている。戦前に鋳造された鉄は戦後の溶鉱炉の磨耗具合を調べるために耐火煉瓦にトレーサーとして仕込まれたコバルト60を含まないことから放射能測定において環境放射能遮蔽材などに用いられている(陸奥鉄)。
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