ドイツ帝国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
詳細は「ドイツ帝国」を参照 プロイセンは自らの指揮の下により独仏戦争を終結させたことにより小ドイツ主義を推し進めていく。1871年にはドイツ帝国が建国され、ヴィルヘルム1世が皇帝に即位した。またオットー・フォン・ビスマルクが帝国宰相に任命され、ベルリンは帝都となった。 ベルリンはこの時代に産業都市として発展し、人口も80万を超えるようになっていた。この成長によりインフラストラクチャーが間に合わなくなってきた。1873年にようやく下水道整備工事が開始され、1893年に完了する。経済の面では、いわゆるグリュンダーツァイト(ドイツ語版)(泡沫会社乱立時代)を経て1873年恐慌が起こり、1870年代後半は不景気となっていく。しかしながらなおも都市開発を進めることは課題として残っていた。1876年1月1日、ベルリン市は帝国政府から橋と道路の建設に関する契約を受ける。1882年のいわゆるクロイツベルク判決(ドイツ語版)により、建築警察(ドイツ語版)の権限は危険回避にかかるものに制限され、美観に関する関与は禁止された。 1896年、輸送力の増強を図るため地下鉄と近郊線の建設が開始された。またヴィルヘルミニッシャー・リング(ドイツ語版)といった都心周辺の住宅地(クロイツベルク(ドイツ語版)、プレンツラウアー・ベルク、フリードリヒスハイン(ドイツ語版)、ヴェディング)では、労働者が安い家賃で住める集合住宅が建設された。1850年からはベルリン南西部の開発に着手し、中産階級向けの住宅街を拡張し、また19世紀末には西部で高級住宅街が造成されていった。1904年から1908年にかけて、ベルリンについて詳細に研究した 『大都市叢書(ドイツ語版)』全51巻が出版された。これは当時のドイツ語圏で行われた都市研究プロジェクトの中で最大のものである。この主要なテーマの一つに、ベルリンとウィーンの比較がある。それは当時、ベルリンは「近代の人工都市」、ウィーンはこれに比べ伝統、文化の面で優る、と一般に理解されていたという背景がある。1909年、ヨハニスタール(ドイツ語版)にドイツ初の飛行場、ヨハニスタール飛行場が開かれる。1911年にはベルリン市域の急速な発展によりインフラストラクチャー政策の調整が必要となったことから大ベルリン広域連合(ドイツ語版)が設置され、この目的組合は1920年に大ベルリン(後述)となっていく。またこの広域連合の成果として保存樹林協定(ドイツ語版)の締結が挙げられる。 第一次世界大戦によりベルリンは食糧不足に苛まれる。1916年から1917年にかけての冬の時季には15万人が食糧支援を頼り、またストライキも起こった。1918年に大戦が終結するとヴィルヘルム2世は皇帝を退位する。その後社会民主党 (SPD) に所属していたフィリップ・シャイデマンと共産主義者カール・リープクネヒトはそれぞれ11月革命が成功したのちに共和政国家の成立を宣言する。その翌月、ベルリンでは議会会派間で市街戦が頻発した。
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