ドイツ帝国の盟主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:44 UTC 版)
西欧諸国がアメリカ大陸へ進出すると、アメリカでより大規模な農業が展開された影響を受け、プロイセンの農業は衰退していった。南北戦争以降、西部地域(ルール地方・ラインラント等)で工業地帯が形成されるにつれ、職を求め東部地域(東プロイセン・西プロイセン・ポンメルン・ポーゼン・シュレージエン)から西部地域への大規模な人口移動(オストフルフト)が起こった。東部でも既に1840年代からシュレージエン地方に付近の炭鉱・鉱山を活用した工業地帯が形成されていたが、人口流出を食い止める大きな力にはならなかった。なお、王国内(特に東部地域)の産業全般には、ロシア帝国支配下のポーランドからの出稼ぎ労働者も深く関わっていた。 1860年にヴィルヘルム1世が即位した当時、議会では自由主義勢力が伸長しており、国王の軍に対する最高指導権さえ否定されて、退位寸前に追いやられたほどだった。しかしパリ駐在プロイセン大使であったビスマルクが呼び戻されて宰相となり「鉄血政策」を唱えると、保守派が勢力を盛り返し、プロイセンは再び軍事力による大国化へと進んだ。プロイセンは1864年に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によってシュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国を獲得した後、オーストリア帝国と軋轢を生じたが、ビスマルクの巧妙な外交によって他国の介入は防がれた。プロイセンは1866年の普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となり、ヘッセン、ナッサウとハノーファーを獲得した。続く1870年から1871年までの普仏戦争にも参謀総長大モルトケらの活躍によって勝利し、エルザス=ロートリンゲン(フランス語ではアルザス=ロレーヌ)をフランスから奪取、またプロイセン国王ヴィルヘルム1世は1871年にヴェルサイユ宮殿で統一ドイツの皇帝となった。しかし、プロイセン国王を兼ねるヴィルヘルム1世は、ドイツによるプロイセンの併合だと感じ、プロイセンを尊重して皇帝になることを強く拒み、抵抗を示していた。それでもヴィルヘルム1世は、ビスマルクらの後押しもあり、抵抗しつつもプロイセン王とドイツ皇帝を兼ねた。
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