ドイツ帝国から戦間期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 07:21 UTC 版)
「クライペダ」の記事における「ドイツ帝国から戦間期まで」の解説
1871年にプロイセン王国を主体にドイツ統一が達成されると、メーメルはドイツ帝国の中で最も東北部に位置する都市となった。 第一次世界大戦後の1919年、敗戦国のドイツ領であった当地は連合国の保護下に置かれ、ヴェルサイユ条約締結によりメーメル及びその周辺(メーメルラント(英語版))はドイツから割譲された。割譲地は国際管理地域としてフランスによる委任統治の下に置かれ、フランス軍が駐留する中で地方自治が行われていた。しかし、1923年にブドリュス大佐指揮下のリトアニア軍が侵攻し、リトアニアに編入された。フランスは自治権の保持を条件にメーメルラントを放棄し、連合国もリトアニアへの編入を追認し、リトアニア領クライペダとして国際承認された。ドイツ人の人口が多かったクライペダでは、1938年の選挙でナチ党が勝利し、1939年3月22日、ドイツ第三帝国に併合されてドイツ領メーメルとなった(この時、ヒトラー総統が旧市街のドラマ劇場のバルコニーに立ち演説した)。この併合はオーストリア併合と、及びチェコスロバキア解体(ズデーテン地方とベーメン・メーレン保護領の併合)の後に行われ、第二次世界大戦前にドイツが平和裏に獲得した最後の地域となった。
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