ドイツ帝国から第二次大戦後までの歴史
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「ベルリン王宮」の記事における「ドイツ帝国から第二次大戦後までの歴史」の解説
1871年、ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿の鏡の間で統一ドイツの初代皇帝に即位し、ベルリン王宮はドイツ帝国の中心となった。帝国は立憲君主制であり、1894年に議会や内閣の拠点となる国会議事堂が完成すると王宮の政治的な力はかすむようになった。 第一次世界大戦の末期、1918年11月に入るとドイツ革命が勃発し各都市で蜂起や政変が起こり、11月9日にはベルリンでも大規模デモが起こった。政府の機能が麻痺する中、同日にはフィリップ・シャイデマンがフリードリヒ・エーベルトらとともに国会議事堂のバルコニーから共和国樹立宣言を行った。その2時間後、スパルタクス団の指導者であったカール・リープクネヒトは王宮の第四門のバルコニーから「ドイツ社会主義共和国」樹立の宣言を行った。この日、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し、11月末にはドイツ皇帝およびプロイセン国王からの退位に同意し、ドイツの帝政・王政は終わりを告げ、ベルリン王宮の君主の居所としての役割も終わった。革命後間もなく王宮は「人民海兵団」(de)によって占拠されたが、12月23日に彼らが略奪を始めたため政府によって攻撃された(人民海兵団事件)。 ヴァイマル共和政の時期、王宮の一部は博物館となり、他の部分は国家の式典などの行事に使われた。なおもホーエンツォレルン家の復位を望む君主制支持者が活動していたが、彼らの望みは君主制に反対するナチスが政権を握ったことで潰えることとなる。ナチス時代、王宮も旧王族も無視された存在であった。第二次世界大戦末期、王宮は二度連合軍の爆撃を受けた。1945年2月3日の空襲では小規模な被害が出たが、2月24日の空襲ではベルリンを守る対空砲火網や迎撃部隊はすでに崩壊状態であり、王宮は焼夷弾の命中で屋根と内部が炎上した。 終戦時にはベルリン王宮は焼け落ちて廃墟と化していたが、外壁や門などの構造物や「薬医棟」、「白の間」など一部の部屋は砲撃や銃撃で損傷しているものの崩れずに建っており、王宮の一部は1945年から1950年までの間、屋根を掛けられて仮設展示場として使用された。同じように廃墟となりながらも外壁は残ったベルリンの歴史的建築物の多く(例えば博物館島やウンター・デン・リンデンの諸建築、あるいはベルリン王宮より重大な損害を被ったシャルロッテンブルク宮殿など)は戦後の再建工事で元通りの姿を取り戻しており、ベルリン王宮も資金をかけて再建工事を行えば復元することは可能な状態だった。しかし王宮のある地区はソ連軍占領下の東ベルリンとなっており、1949年に発足したドイツ民主共和国(東ドイツ)政府は王宮をプロイセン軍国主義の象徴とみて保存しないことを決めた。1950年の9月7日から12月30日にかけて王宮の残骸は取り壊され、都心にできた大きな跡地はパレードのための広場となった。唯一、カール・リープクネヒトが社会主義政府樹立を呼びかけたバルコニーのある部分の外壁だけが壊されずに残された。 1964年、東ドイツ政府は国家評議会ビルを王宮跡地の南隣に新築し、カール・リープクネヒトのバルコニーをそのファサードに取り付けた。王宮跡地のうち東半分には、エーリッヒ・ホーネッカー時代の1973年から1976年にかけてブロンズミラーガラス張りの大きな近代建築である共和国宮殿(Palast der Republik)が建てられ、人民議会(Volkskammer)や美術館、レストラン、ボウリング場などに利用された。 1990年10月のドイツ再統一の直前、共和国宮殿はアスベストが多数使用されているとして閉鎖された。再統一後、ベルリン市政府は2003年までアスベスト除去作業を行ったが、この地にあった王宮をめぐって、共和国宮殿を取り壊して王宮を再建する意見と東ドイツ時代の遺産である共和国宮殿の取り壊しに反対する意見とが対立した。2003年11月、連邦政府は共和国宮殿取り壊しの決定を行い、2006年2月から解体に着手した。2008年半ばに解体が終わった後は、将来の計画が本決まりになるまで跡地利用を凍結し、当面駐車場として利用することとされた。
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