戦後の再建
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第二次世界大戦では、米軍の砲撃を受け、山もろとも大破した。 戦後、跡地には琉球大学が置かれることになった。昭和35年(1960年)になって沖縄神社再建運動が起こり、琉球大学に土地の返還を求めたが拒否されたため、やむなく弁ヶ嶽の隣に再建された。昭和48年(1973年)に宗教法人格を取得した。
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戦後の再建
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1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー映像が発見されており、それによると、本殿の屋根瓦は黒く映っている[出典無効]が、経年で溜まった塵や煤の影響なのか、瓦自体が黒い色であるのかまでは不明である。一方、琉球大学付属図書館のウェブサイトで公開されている写真が戦前も黒い瓦だったとする根拠とされている資料の一つであるが、これはモノクロ写真に着色したものである。 また、瓦を研究している沖縄国際大学の上原靜教授(考古学)によると、琉球王国では16世紀後半から中国系の灰色(黒)の瓦が焼かれていたが、17世紀末から赤瓦に移行し、灰色の瓦は燃料となるまき不足のため19世紀初めには生産されなくなったと推定している 。 首里城の外壁は『首里那覇鳥瞰図屏風』は赤と白、1719年冊封副使・徐葆光『冊封琉球全図』の「中秋宴図」に描かれた首里城の外壁は白色、19世紀初頭『琉球貿易図屏風』は黒色、、『首里那覇鳥瞰図』は黒色、王国時代の公的な画家・友寄喜恒の『首里城図』は黒色、阿嘉宗教『首里那覇図』は白色、『首里那覇港図屏風』は黒色、 琉球朝日放送にて2019年11月12日午後6時35分から放映された那覇市歴史博物館の 『首里那覇鳥瞰図』では赤と白または黒、『沖縄首里城図』では木地にて描かれている。 昭和大修理の際、見本の柱の古材に弁柄が残っていたという証言から柱は弁柄色に決められた。昭和大修理の際の内壁に弁柄が残っていたという記述から推定して外壁も弁柄色とされた。 昭和三年に行われた大修理の際には、彩色はほとんどはげ落ちてしまっていた……正殿の塗装・彩色についての一級資料は、一七六八年の改修時の資料「百浦添御殿普請付御絵図井御材木寸法記」である。ところが、この資料は向拝部や御差床などの重要なところだけの記録になっており、柱や壁、天井などの彩色の記述はない。……正殿の外壁及び内壁については、塗られていなかった、あるいは分からなかったという証言しか得られなかった。……「懸社沖縄神社拝殿構造様式説明書」や「沖縄神社拝殿修理工事関係資料」などの文献には、内壁板に弁柄色が残っていたという記述があることから、内壁については弁柄色であると推定できる。なお、外部と内部の柱はともに証言などから弁柄色と結論づけていたが、柱と壁の色の調和の観点からして、内部の柱と壁が同じ弁柄色ならば、外部の柱と壁も同じでなければ建具の色との調和がとれなくなってしまう。建具は表と裏は同じ色であるはずだからである。このため、外壁についても弁柄色を採用することになった。…… 【柱の色】正殿の色のうち、向拝部分を除く柱と壁の色については、文献からは全く情報が得られなかった。……名前は新垣恒篤氏、当時九二歳であられた。……既に古老などのヒヤリングを通じて、剥げ落ちる以前の彩色のことを知っておられる方はいないとされていたが、新垣氏の登場を契機に古老の体系的なヒヤリング調査の必要性が生じ、……正殿の昭和の修理工事に直接携わった方に出会うことができた。その方は浜元朝功氏といい、現場で実際に彩色顔料の調合をやっていたとのことだった。また、見本として柱の古材が残っており、そこには弁柄が残っていたそうである。浜元氏のつてで、当時現場の指揮をされていた湧田森徳氏からもその証言の確認がとれたところである。そして、この証言がこの時点における決定的な根拠となって今の首里城の姿がある。 — 高良倉吉,福島清,平良啓,加藤真司、 伝説の赤い城は、本当に赤かったのか。……「かつては赤い城だった」という言い伝えは残っていたが、その"赤"を示す根拠はどこにもなかった。「昭和の大修理の図面にも、色に関する記載はなかった。戦争で焼失する前の首里城を覚えているという老人もいたが、その当時の首里城は老朽化し、塗ってあった色は剥げ落ちていた。……プロジェクトのメンバーの一人が、人間国宝だった故・鎌倉芳太郎の著書を読んでいた。……鎌倉は、かつて首里城を救ったことのある人物だった。一九二三年(大正一二)年、首里市は財政悪化から首里城の維持管理ができなくなり、取り壊しを決めた。これを知った鎌倉は、東京に住んでいた建築家の伊東忠太とともに内務省に働くかけ、取り壊しを中止させたのだ。……鎌倉の遺品は沖縄県立芸術大学へ寄贈されていた。……古文書には『百浦添御殿普請付御絵図並御材木寸法記』と記されていた。……壁の色の特定は、難航を極めた。プロジェクトのメンバーは、戦前の首里城を知る老人たちの証言を集めた。「薄い黒だった」「触ると手が黒くなった」 壁が赤だったという証言は一つも得られなかった。が、黒というのは、塗装の色ではない。伝説の城は、確かに赤かったのだ。それを明らかにしたのは、「昭和の大修理」で彩色工事に携わった経験を持つ古老の記憶だった。 「弁柄の顔料がわずかに残っていた」 聞き取り調査を行った平良は、……"記録"にないことも、"記憶"には残されていた。古老の力なしに首里城の復元は成し得なかったかもしれない。 — NHK「プロジェクトX」制作班、 塗料は漆となった。「尚家資料を調べると、琉球漆器を作る貝摺奉行所の職人たちが建物の塗装に参加していたことが分かった。それを知り、正殿は巨大な琉球漆器だと理解した。」技法は新たに模索された。「首里城の補修も貝摺奉行が担当したのだが、現存する資料の範囲内では具体的な工程は不明だという」 1462年李朝実録にて宮古島へ漂着した肖得誠達は首里城と思われる城の国王が住む二階の閣は丹漆(油漆)ではなく丹艧(細かい赤い色の土で塗装された彩色(丹青))と報告している。 肖得誠等八人, 今年(※1462年)正月二十四日, 羅州發船, 二月初四日, 漂到琉球國 彌阿槐島。 ……一, 城有三重, 皆石築, 城高如我國都城而稍高, 城門亦如我國。 其城回互如曲水, 兩城相距如一匹布長。一, 國王居於二層閣, 其閣皆著丹艧, 覆以板, 每鷲頭以鑞沃之。 ……一, 國王年三十三歲。 一, 國王有子四人, 長子年十五許, 餘皆幼。……王子不與國王同處, 別在他所。一, 舊宮在所居宮城南, 其層閣、城郭制度與常居宮同。 時時往來, 或二三日、或四五日留居焉。 — 世祖恵荘大王實録,第二十七之九,世祖八年二月辛巳の条.李朝実録、 1992年首里城復元では漆と乾性油の桐油が交互に多層塗りされたが、酸化重合反応や2019年火災時の炎の勢いを強めた可能性が指摘されている。 漆は紫外線に弱いという性質がありますから、漆の上に桐油を塗って、研磨して、また漆を塗ってというのを繰り返して、最終的に弁柄色に仕上げます。 — 諸見由則、 外壁の塗装の工程はなんと27にも及び、桐油(とうゆ)と弁柄を混ぜたものを塗っているのが特徴だ。 — 萩原さちこ、 1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了した。2月には国王が家族や女官と暮らした御内原(おうちばら)が公開された。
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戦後の再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/03 04:45 UTC 版)
1944年3月22日夜中の空爆によって、この建物は廃墟となった。ドイツ一美しいと言われたこの廃墟は、市民の抗議や寄付金によって撤去をまぬがれ、再建された。外部は忠実に元の姿で復元されたが、内部は従来の歌劇場としてではなく、多用途に使えるモダンなコンサートホールとなった。 劇場内部(1879年) 1943年 廃墟となっていた時代(1958年) 1981年8月28日、ミヒャエル・ギーレン指揮、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団によるマーラーの交響曲第8番の演奏により、現在の名称「旧(Alte)オペラ座(Oper)」で改めて開場した。 大ホールの収容数は約2500人を数え、室内楽や会議用として利用される約700席のモーツァルトザール(Mozart-Saal)を兼ね備える。
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