戦後の再建とは? わかりやすく解説

戦後の再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/30 22:30 UTC 版)

沖縄神社」の記事における「戦後の再建」の解説

第二次世界大戦では、米軍砲撃を受け、山もろとも大破した戦後跡地には琉球大学置かれることになった昭和35年1960年になって沖縄神社再建運動起こり琉球大学土地の返還求めた拒否されたため、やむなく弁ヶ嶽の隣に再建された。昭和48年1973年)に宗教法人格を取得した

※この「戦後の再建」の解説は、「沖縄神社」の解説の一部です。
「戦後の再建」を含む「沖縄神社」の記事については、「沖縄神社」の概要を参照ください。


戦後の再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:44 UTC 版)

首里城」の記事における「戦後の再建」の解説

1958年昭和33年)、守礼門再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺建築から再建が始まる。1972年昭和47年)、日本復帰後に国の史跡指定1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲城郭再建された。1979年昭和54年)に琉球大学首里城跡から移転する1980年代に県および国による首里城再建計画策定され本格的な復元はじまった1989年平成元年11月より、遺構発掘調査昭和初期正殿改修図面写真資料古老記憶などを元に工芸家職人動員した当時装飾建築技術復元作業が行われて正殿他の再建始まった屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人集めて話を聞いても赤~黒まで意見バラバラ難航した。すでに琉球瓦生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年米国立公文書館から沖縄戦焼失前の首里城カラー映像発見されており、それによると、本殿屋根瓦黒く映っている[出典無効]が、経年溜まった塵や煤の影響なのか、瓦自体が黒い色であるのかまでは不明である。一方琉球大学付属図書館ウェブサイト公開されている写真戦前も黒い瓦だったとする根拠とされている資料一つであるが、これはモノクロ写真着色したのであるまた、瓦を研究している沖縄国際大学の上原靜教授考古学)によると、琉球王国では16世紀後半から中国系の灰色(黒)の瓦が焼かれていたが、17世紀末から赤瓦移行し灰色の瓦は燃料となるまき不足のため19世紀初めに生産されなくなった推定している 。 首里城外壁は『首里那覇鳥瞰図屏風』は赤と白、1719年冊封副使徐葆光冊封琉球全図』の「中秋宴図」に描かれ首里城外壁白色19世紀初頭琉球貿易屏風』は黒色、、『首里那覇鳥瞰図』は黒色王国時代公的な画家友寄喜恒の『首里城図』は黒色阿嘉宗教首里那覇図』は白色、『首里那覇港屏風』は黒色琉球朝日放送にて2019年11月12日午後6時35分から放映され那覇市歴史博物館の 『首里那覇鳥瞰図』では赤と白または黒、『沖縄首里城図』では木地にて描かれている。 昭和大修理の際、見本の古材に弁柄残っていたという証言から弁柄色決められた。昭和大修理の際の内壁弁柄残っていたという記述から推定して外壁弁柄色とされた。 昭和三年行われた大修理の際には、彩色はほとんどはげ落ちてしまっていた……正殿塗装彩色についての一級資料は、一七六八年の改修時の資料百浦御殿普請御絵図井御材木寸法記」である。ところが、この資料向拝部や御差床などの重要なところだけの記録になっており、や壁、天井などの彩色記述はない。……正殿外壁及び内壁については、塗られていなかった、あるいは分からなかったという証言し得られなかった。……「懸社沖縄神社拝殿構造様式説明書」や「沖縄神社拝殿修理工事関係資料」などの文献には、内壁板に弁柄色残っていたという記述があることから、内壁については弁柄色であると推定できる。なお、外部と内部はともに証言などから弁柄色結論づけていたが、と壁の色の調和観点からして内部と壁が同じ弁柄色ならば、外部と壁も同じでなければ建具の色との調和がとれなくなってしまう。建具表と裏は同じ色であるはずだからである。このため外壁についても弁柄色採用することになった。…… 【の色】正殿の色のうち、向拝部分を除くと壁の色については、文献からは全く情報得られなかった。……名前は新垣恒篤氏、当時二歳であられた。……既に古老などのヒヤリング通じて剥げ落ちる以前彩色のことを知っておられる方はいないとされていたが、新垣氏の登場契機古老体系的なヒヤリング調査必要性生じ、……正殿昭和修理工事直接携わった方に出会うことができた。その方浜元朝功氏といい、現場で実際に彩色顔料調合をやっていたとのことだった。また、見本としての古材が残っており、そこには弁柄残っていたそうである。浜元氏のつてで、当時現場指揮をされていた湧田森徳氏からもその証言確認がとれたところである。そして、この証言がこの時点における決定的な根拠となって今の首里城の姿がある。 — 高良倉吉,福島清,平良啓,加藤真司、 伝説赤い城は、本当に赤かったのか。……「かつては赤い城だった」という言い伝え残っていたが、その"赤"を示す根拠はどこにもなかった。「昭和大修理図面にも、色に関する記載はなかった。戦争焼失する前の首里城覚えているという老人もいたが、その当時首里城老朽化し塗ってあった色は剥げ落ちていた。……プロジェクトメンバー一人が、人間国宝だった故・鎌倉芳太郎著書読んでいた。……鎌倉は、かつて首里城救ったことのある人物だった。一九二三年(大正一二)年、首里市は財政悪化から首里城維持管理ができなくなり取り壊し決めた。これを知った鎌倉は、東京住んでいた建築家伊東忠太とともに内務省に働くかけ、取り壊し中止させたのだ。……鎌倉遺品沖縄県立芸術大学寄贈されていた。……古文書には『百浦御殿普請御絵図並御材木寸法記』と記されていた。……壁の色の特定は、難航極めたプロジェクトメンバーは、戦前首里城を知る老人たちの証言集めた。「薄い黒だった」「触ると手が黒くなった」 壁が赤だったという証言一つ得られなかった。が、黒というのは、塗装の色ではない。伝説の城は、確かに赤かったのだ。それを明らかにしたのは、「昭和大修理」で彩色工事携わった経験を持つ古老記憶だった。 「弁柄顔料わずかに残っていた」 聞き取り調査行った平良は、……"記録"にないことも、"記憶"には残されていた。古老の力なしに首里城復元成し得なかったかもしれない。 — NHK「プロジェクトX」制作班、 塗料は漆となった。「尚家資料調べると、琉球漆器作る貝摺奉行所職人たちが建物塗装参加していたことが分かった。それを知り正殿巨大な琉球漆器だと理解した。」技法新たに模索された。「首里城補修貝摺奉行担当したのだが、現存する資料範囲内では具体的な工程不明だという」 1462年李朝実録にて宮古島漂着した肖得誠達は首里城思われる城の国王が住む二階の閣は丹漆(油漆)ではなく丹艧(細かい赤い色の土で塗装され彩色(丹青))と報告している。 肖得誠等八人, 今年(※1462年)正月二十四日, 羅州發船, 二月四日, 漂到琉球國 彌阿島。 ……一, 城有三重, 皆石築, 城高如我國都城而稍高, 城門亦如我國。 其城回互如曲水, 兩城相距如一匹布長。一, 國王居於二層閣, 其閣皆著丹艧, 覆以板, 每頭以鑞沃之。 ……一, 國王年三十三歲。 一, 國王有子四人, 長子十五許, 餘皆幼。……王子不與國王同處, 別在他所。一, 舊宮在所宮城南, 其層閣、城郭制度常居宮同。 時時往來, 或二三日、或四五日留居焉。 — 世祖恵荘大王實録,第二十七之九,世祖八年二月辛巳の条.李朝実録1992年首里城復元では漆と乾性油桐油交互に多層塗りされたが、酸化重合反応2019年火災時の炎の勢い強めた可能性指摘されている。 漆は紫外線に弱いという性質ありますから、漆の上桐油塗って研磨して、また漆を塗ってというのを繰り返して最終的に弁柄色仕上げます。 — 諸見由則、 外壁塗装工程はなんと27にも及び、桐油(とうゆ)と弁柄混ぜたものを塗っているのが特徴だ。 — 萩原さちこ、 1992年平成4年11月2日には正殿中心とする建築物群、そこへ至る門の数々城郭再建され首里城公園開園した。現在は、首里城中心とした一帯首里城公園として整備公開すすめられており、正殿の裏側にあたる城郭建築物群の再建事業引き続き行われている。2000年平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産登録された。2006年平成18年4月6日日本100名城100番)に選定された。約30年にわたる復元工事2019年1月完了した2月には国王家族女官暮らした御内原(おうちばら)が公開された。

※この「戦後の再建」の解説は、「首里城」の解説の一部です。
「戦後の再建」を含む「首里城」の記事については、「首里城」の概要を参照ください。


戦後の再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/03 04:45 UTC 版)

旧オペラ座」の記事における「戦後の再建」の解説

1944年3月22日夜中空爆によって、この建物廃墟となったドイツ一美しいと言われたこの廃墟は、市民抗議寄付金によって撤去をまぬがれ、再建された。外部忠実に元の姿で復元されたが、内部従来歌劇場としてではなく多用途に使えるモダンなコンサートホールとなった劇場内部1879年1943年 廃墟となっていた時代1958年1981年8月28日ミヒャエル・ギーレン指揮フランクフルト・ムゼウム管弦楽団によるマーラー交響曲第8番演奏により、現在の名称「旧(Alte)オペラ座Oper)」で改め開場した。 大ホール収容数は約2500人を数え室内楽会議用として利用される700席のモーツァルトザール(Mozart-Saal)を兼ね備える

※この「戦後の再建」の解説は、「旧オペラ座」の解説の一部です。
「戦後の再建」を含む「旧オペラ座」の記事については、「旧オペラ座」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦後の再建」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦後の再建」の関連用語

戦後の再建のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦後の再建のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの沖縄神社 (改訂履歴)、首里城 (改訂履歴)、旧オペラ座 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS