戦後の再建と高度成長期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:27 UTC 版)
終戦後の復興は容易ではなかったが、1946年2月に浜大津と京都三条大橋を結ぶ京津国道線の運行再開を皮切りに、車両修理を進めつつ運行を再開していった。燃料事情が好転した1947年以降は復興も本格化し、1948年には京都市内の定期遊覧バスも再開された。車両面でも大型化が進み、トレーラーバスも導入されたが、同社ではこのトレーラーバスも定期観光バスに投入していたことが特筆される。1950年にはほぼ戦前の状態に復旧したが、この際に現行のカラーリングが導入されている。 1951年には淀川右岸の路線を阪急バスに譲渡することになった。これは戦時統合後の再分社により京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再度分離独立した際に、京阪自動車も京阪電気鉄道の傍系企業となったのだが、新京阪線はそのまま京阪神急行電鉄に残留することになったため、新京阪線沿線のバス事業についても京阪神急行電鉄の傍系企業として存続する阪急バスへ譲渡することになったもので、全路線の3割強にあたる路線が譲渡されることになった。 1960年代前半までは中距離路線への進出が目立ち、京都を拠点に大阪・今津・奈良・八日市・和歌山への路線を開設した。また、京都定期観光バスも1955年に京都市交通局と全面的に連携した事業形態となり、多数のコースが設定された。 しかし、この時期は他社との競合も激しくなった時期で、サービスアップのための経営努力は結果として大きな負担となった。人件費の増大を招いた一方で運賃は据え置きとされたことから、1962年以降は赤字が増大することになったため、1965年から会社再建のために生産性の向上が図られた。貸切バス部門については大幅に縮小され、1968年までには特殊用途の10台を残すのみで京阪自動車本体での貸切バス営業は行なわないことになり、京都地区の京阪貸切バスは京阪国際観光自動車にほぼ一本化されることになった。また、路線バスについてもワンマン化や路線再編成などを行なったほか、定期観光バス部門と一体運営するべく営業所の統合を行った。定期観光・路線兼用車もこの時に登場している。 これらの経営努力に加え、京阪電鉄からの支援もあり、1970年までに会社再建の目途も立ってきたのである。
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