戦後の再建から京阪傘下へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/24 06:07 UTC 版)
「京阪宇治交通」の記事における「戦後の再建から京阪傘下へ」の解説
終戦後、買出しなどの乗客輸送で活況を呈したように見えたものの、経費がかさんだことからなかなか経営は好転しなかった。戦時中は休止となっていた宇治川ラインが復旧し、京阪電鉄ではダム工事用の軌道を改修して「お伽電車」を走らせた。これはバス路線とほぼ並行するため、当初バス会社ではお伽電車を脅威とみなしていたが、観光客の急増はバス利用者の増加にもつながることになった。 しかし、1953年(昭和28年)9月の13号台風による崖崩れにより、道路とお伽電車はともに流失、その後も数年間は山崩れが相次ぎ、宇治川ラインのバスは長期にわたり運休を余儀なくされた。1954年には京都市内乗り入れを果たしたものの、1957年7月に発生した事故の補償も会社の経営に深刻な影響を与えた。このため、1959年に京阪電鉄が88%の株式を買収の上、京阪の傘下に入ることになった。この時に社名を京阪宇治交通に変更している。 京阪の傘下に入ってからは、資金の裏づけが確保されたこともあり、再び積極的な営業展開を行なうことになり、車両の更新も進められた。しかし、経営的にはなかなか好転しなかったことから、1963年以降は合理化に着手し、ワンマン化等を進めるほか、貸切バス事業は全て京阪国際観光自動車に営業譲渡した。
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