戦後の共楽館と映画
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戦後の共楽館の最大の特徴は映画が常に上映され、主に映画館として活用された点である。先述のように特に1960年代は他の催し物の数が減少し、ほぼ映画館に特化した形となった。共楽館は1946年(昭和21年)3月には常設映画館として日活の直営館となり、日立市内の市内興行会にも加盟した。しかし1948年(昭和23年)には日活の直営館を外れることになった。これは鉱山の福利厚生施設としては、多少上映時期が遅くなったとしても日本映画とともに洋画も上映する方が良かったという施設運営上の問題とともに、なんと言っても共楽館の料金が他の映画館よりも遥かに安いため、他の映画館から日活の常設館扱いに苦情が出されたことが大きかった。 1954年(昭和29年)度に日本人文科学会が日本ユネスコ国内委員会の委託を受けて行った日立市の社会調査の中で、共楽館は日立鉱山の充実した福利厚生施策の一環として調査対象に取り上げられている。調査内容によると、定員1,500名の共楽館は毎週5日、映画館として洋画、邦画を上映し、映画の上映の合間を縫って演劇、演芸上演に活用されており、入場料は大人20円、子ども10円と極めて安いとしている。もちろんこの料金のみでは運営が成り立つはずはなく、経費の多くは日立鉱山の会社が補助をしていた。また共楽館以外の日立鉱山の極めて充実した福利厚生施設についても詳細に調査しており、これらの福利厚生施設の利用頻度は高く、日立鉱山従業員の生活に密接しているとして、その結果として鉱山社会を外界から一種隔離することにつながっていることを指摘している。またかつては全国各地からやってきていた日立鉱山従業員が、調査時点では主に日立鉱山労働者の子弟から採用されるようになり、勤続年数の長期化も目立つなどの特徴も紹介している。 戦後も日立鉱山の福利厚生施設として、鉱山側からの多額の経費補助を受けながら運営されていた共楽館であるが、共楽館の映画館としての機能も充実が図られていた。1953年(昭和28年)4月には、これまでの昭和10年頃に導入された映写機を最新のものに交換した。1954年(昭和29年)には出入り口の改造など館内の設備を改造し、1955年(昭和30年)10月には、日本鉱業創業50周年記念事業として、座席をこれまで長年使用してきた木製畳張りの長いすからモケット張り個人椅子に換え。スクリーンもシネマスコープ用のものに変更された。 シネマスコープを採用した前後、1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)頃が映画館としての共楽館の最盛期であったという。上映は毎回のように共楽館の2階席まで満員であり、満員札止めの共楽館に無理をして入ろうとして死者が出たこともあった。上映する映画については温交会からの伝統を引き継ぎ、労働組合の代表や職場の代表が加わって決められるようになった。ただ、邦画の場合は封切後各映画館で放映が一通り済んだ後の二番館としての上映となり、どうしても封切後数ヵ月後の上映となった。一方洋画については共楽館にもセールスが来るため、交渉次第では早めに上映することも可能であった。実際のところ封切後、上映が遅くなることを我慢すればたいていの映画は上映が可能であったという。戦後、日立鉱山の共楽館、本山劇場、諏訪会館ではそれぞれ映画上映が行われており、映画全盛期の1956年(昭和31年)頃、共楽館では洋画を金、土、邦画は日、月、火に昼1回、夜1回の1日2回上映していた。なお料金については1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)頃の全盛期の共楽館は、前述のように大人20円、子ども10円であったが、一般的には2本立てで大人30円、子ども20円であった。1954年(昭和29年)頃、日立の他の映画館は2本立てで80円が相場であったというから、半値以下であった。なお鉱山関係者以外の一般客の料金は大人50円とされていたが、実際には地域の人々も社員と同額の2本立て30円で映画を楽しんでいたのが現実であった。 実際、共楽館でどのような映画が上映されたのかというと、共楽館の映画館としての全盛期が映画の黄金時代と重なったこともあり、名作、大作の目白押しであった。まず邦画から見ると、日本映画黄金時代にふさわしく、小津安二郎の秋日和、秋刀魚の味、溝口健二の雨月物語、成瀬巳喜男の浮雲、黒澤明の七人の侍、羅生門などが上映された。洋画はアメリカ映画が質量ともに中心となるラインアップであり、荒野の決闘、ローマの休日、麗しのサブリナ、エデンの東、十二人の怒れる男など、その他、イギリス映画は戦場にかける橋、フランス映画は太陽がいっぱい、イタリア映画も鉄道員など、名作が数多く上映されていた。上述のようないわゆる名作以外にも、日本映画では時代劇系のチャンバラ物、つまり娯楽性の高い映画も数多く上映されており、映画の全盛期に映画館としての全盛期を迎えた共楽館で、当時の映画ファンは格安で名画、娯楽大作を堪能できる楽しみを味わっていた。
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