戦後の共楽館と映画とは? わかりやすく解説

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戦後の共楽館と映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:56 UTC 版)

共楽館」の記事における「戦後の共楽館と映画」の解説

戦後の共楽館最大特徴映画が常に上映され、主に映画館として活用された点である。先述のように特に1960年代は他の催し物の数が減少し、ほぼ映画館特化したとなった共楽館1946年昭和21年3月には常設映画館として日活直営館となり、日立市内の市内興行会にも加盟した。しかし1948年昭和23年)には日活直営館を外れることになった。これは鉱山福利厚生施設としては、多少上映時期遅くなったとしても日本映画とともに洋画上映する方が良かったという施設運営上の問題とともに、なんと言っても共楽館料金が他の映画館よりも遥かに安いため、他の映画館から日活常設館扱い苦情出されたことが大きかった1954年昭和29年)度に日本人文科学会日本ユネスコ国内委員会委託受けて行った日立市社会調査の中で、共楽館日立鉱山充実した福利厚生施策一環として調査対象取り上げられている。調査内容によると、定員1,500名の共楽館毎週5日映画館として洋画邦画上映し映画の上映の合間を縫って演劇演芸上演活用されており、入場料大人20円、子ども10円極めていとしている。もちろんこの料金のみでは運営成り立つはずはなく、経費多く日立鉱山会社補助をしていた。また共楽館以外の日立鉱山極めて充実した福利厚生施設についても詳細に調査しており、これらの福利厚生施設利用頻度高く日立鉱山従業員の生活に密接しているとして、その結果として鉱山社会外界から一種隔離することにつながっていることを指摘している。またかつては全国各地からやってきてい日立鉱山従業員が、調査時点では主に日立鉱山労働者の子弟から採用されるようになり、勤続年数長期化も目立つなどの特徴紹介している。 戦後日立鉱山福利厚生施設として、鉱山側から多額経費補助を受けながら運営されていた共楽館であるが、共楽館映画館として機能充実図られていた。1953年昭和28年4月には、これまでの昭和10年頃に導入され映写機最新のものに交換した1954年昭和29年)には出入り口改造など館内設備改造し1955年昭和30年10月には、日本鉱業創業50周年記念事業として、座席これまで長年使用してきた木製張り長いすからモケット張り個人椅子換えスクリーンシネマスコープ用のものに変更された。 シネマスコープ採用した前後1953年昭和28年)から1959年昭和34年)頃が映画館として共楽館最盛期であったという。上映毎回のように共楽館2階席まで満員であり、満員札止め共楽館に無理をして入ろうとして死者出たこともあった。上映する映画については温交会からの伝統引き継ぎ労働組合の代表や職場の代表が加わって決められるようになった。ただ、邦画場合封切後映画館放映一通り済んだ後の二番館としての上映となり、どうしても封切後数ヵ月の上となった一方洋画については共楽館にもセールスが来るため、交渉次第では早めに上映することも可能であった実際のところ封切後上映遅くなることを我慢すればたいていの映画上映が可能であったという。戦後日立鉱山共楽館本山劇場諏訪会館ではそれぞれ映画上映が行われており、映画全盛期1956年昭和31年)頃、共楽館では洋画を金、土、邦画は日、月、火に昼1回、夜1回1日2回上映していた。なお料金については1953年昭和28年)から1959年昭和34年)頃の全盛期共楽館は、前述のように大人20円、子ども10円であったが、一般的には2本立て大人30円、子ども20であった1954年昭和29年)頃、日立の他の映画館は2本立て80円が相場であったというから、半値以下であった。なお鉱山関係者以外の一般客の料金大人50円とされていたが、実際に地域人々社員同額の2本立て30円で映画楽しんでいたのが現実であった実際共楽館どのような映画上映されたのかというと共楽館映画館として全盛期映画黄金時代重なったこともあり、名作大作目白押しであった。まず邦画から見ると、日本映画黄金時代ふさわしく小津安二郎秋日和秋刀魚の味溝口健二雨月物語成瀬巳喜男浮雲黒澤明七人の侍羅生門などが上映された。洋画アメリカ映画質量ともに中心となるラインアップであり、荒野の決闘ローマの休日麗しのサブリナエデンの東十二人の怒れる男など、その他、イギリス映画戦場にかける橋フランス映画太陽がいっぱいイタリア映画鉄道員など、名作数多く上映されていた。上述のようないわゆる名作以外にも、日本映画では時代劇系のチャンバラ物、つまり娯楽性の高い映画数多く上映されており、映画全盛期映画館として全盛期迎えた共楽館で、当時の映画ファン格安名画娯楽大作堪能できる楽しみを味わっていた。

※この「戦後の共楽館と映画」の解説は、「共楽館」の解説の一部です。
「戦後の共楽館と映画」を含む「共楽館」の記事については、「共楽館」の概要を参照ください。

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