戦後の全国展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:49 UTC 版)
中林仁一郎は太平洋戦争前の時点で、後年の「東海道メガロポリス」に近い思想を持っていて、百貨店の多店化を構想していた。その通り、戦後は大垣市にあった「マルイ」(東京の月賦百貨店だった丸井とは無関係)を傘下に入れた大垣支店や、他の百貨店が存在しなかった京都府北部の舞鶴市に舞鶴支店を開設するなど店舗展開を進めた。戦災で焼失していた八幡市中央区(現在の北九州市八幡東区中央町)の「九州百貨店」を再建して1954年(昭和29年)に「八幡丸物」を開業したことで九州地方にも店舗を構えるようになった。 東京では1954年(昭和29年)10月に池袋ステーションビル(パルコの前身)に資本参加し、事業目的をホテルを入居させるステーションビル運営から百貨店業に変更した。続いて、同ビルが完成する前に1955年(昭和30年)には新宿三丁目の「新宿ストアー」を買収して「新宿丸物」を開業することで東京に進出し、全国チェーンストア化が完成した。 1957年(昭和32年)12月には池袋駅に「東京丸物」を新築開店し、本格的に東京進出を図った。これを記念して、丸物各店に「名古屋丸栄」 「浜松松菱」 「沼津松菱」「津松菱」や「甲府松菱」も合わせ、「10都市を結ぶ躍進まるぶつ」として雑誌などに広告を出している。
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