戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔
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「団十郎朝顔」の記事における「戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔」の解説
東京名物であった入谷の朝顔が朝顔市という形で復活したのは昭和23年(1948年)であった。地域発展への期待、また敗戦で打ちひしがれた都民の心を癒やしたいという思いも合わせて企画された。当初は3会場で分散開催され、7月中のほぼ1箇月開催されていた。また明治期のように朝顔人形の展示も行われた。当初は人出も少ないさびしい市だったが、関係者の熱意で続けられた。3会場での分散開催では盛り上がりに欠けるとの反省から、会場が統一され真源寺境内に一本化された。その頃から台東区や下谷観光連盟の後援を受けて盛況化していった。1960年代には朝顔の売り上げが3万鉢に達するほどの盛況を見せ、真源寺の境内には収まりきれず裏手の路地にまではみ出していった。この頃には朝顔市の開催期間が7月6日から7月8日の3日間に限定されるようになっていた。その後1970年代から言問通りの方に朝顔屋を振り分けていき、昭和50年(1975年)に言問通りの拡幅が行われ余裕を持って出店が出来るようになったため、真源寺境内や裏手から言問通りに並ぶ形になっていき、ますます盛大に行われるようになった。戦後の入谷朝顔市でいつ頃から「団十郎」が販売されていたかは不明であるが、確認できる最も古い記録は昭和48年(1973年)の読売新聞の記事で、入谷朝顔市での団十郎朝顔の言及がある。昭和53年(1978年)の朝日新聞には団十郎朝顔が人気と伝える記事がある。入谷朝顔市で販売されている団十郎朝顔の特徴を、平成2年(1990年)の読売新聞では「セピア色に白いふちどり」と報じている。青斑入蝉葉で茶色の覆輪花である事はいくつかのウェブサイトで確認できる。
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