入谷朝顔まつり
(入谷朝顔市 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 13:59 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
入谷朝顔まつり
|
|
イベントの種類 | 朝顔祭り |
---|---|
正式名称 | 入谷朝顔まつり |
開催時期 | 毎年:7月上旬の3日間(七夕の頃) |
主催 | 入谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会 |
後援 | 東京都・台東区 |
協賛 | 入谷中央商店街・入谷朝顔組合 |
運営 | 入谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会 |
出展数 | 90店 - 120店前後 |
来場者数 | 20万人 - 30万人 |
入谷鬼子母神への交通アクセス | |
最寄駅 | 東京メトロ入谷駅より徒歩1分 |
公式サイト |
入谷朝顔まつり(いりやあさがおまつり)は、毎年、七夕の季節に東京都台東区下谷の入谷鬼子母神(真源寺)とその界隈で開催される朝顔祭り。
概要

入谷鬼子母神(いりやきしもじん)の境内とその付近の歩道で開催される朝顔祭りで、市の期間中にお参りすると朝顔の造花がついた子育お守りが貰えるという[1]。およそ12万鉢の朝顔が並べられる。江戸時代の後期から行われていた[2]が、1948年に復活し、現在は復活から60年以上の歴史がある。[3]。
「入谷の朝顔市」 嘉永から安政期(1848 - 60)にかけて大ブームとなった朝顔は、明治に入るといったんは衰えたが、明治15年(1882)頃から大正初めにかけて、入谷田圃[4]といわれた一帯に住んでいた植木屋によってひろく栽培されるようになった。坂本村入谷といわれた一帯には、丸新、松本、高野、植松、入又、入十、入久、新亀などの植木屋が軒を並べ、大輪のものや変り種を栽培し人気を集めた。全盛期の24年から25年(1891 - 92)頃には、早朝から往来止めとなるほどの賑わいを見せていた。30年代(1897 - 1906)には、団子坂の菊人形をまねて、朝顔人形が登場したが、通俗的で悪評だった。「入谷みやげ」「植」と書かれた紙片には、ひざまずいて鉢入りの朝顔をみる、着物姿の若い女性が描かれている。「入谷の朝皃は昔も今も有名なる観物なりしが近頃は俗極る人形を造り観覧に興を添るに至りしかは益々盛りに繁盛す」と記載あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「入谷の朝顔市」より抜粋[5]
1913年、東京市は都市化の進展などのために中止し、1948年に復活した。第2次大戦後の再開以来、開催が中止されたのは東日本大震災のために1回、新型コロナウイルス感染拡大防止のために2回、あわせて3回。
沿革
会場
- 東京都台東区下谷1-12-16 入谷鬼子母神(真源寺)とその界隈
主催
- 入谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会[3]
期間
- 毎年 7月初旬の3日間
アクセス
入谷朝顔まつりを舞台とする作品
脚注
関連項目
外部リンク
- 入谷朝顔まつり(朝顔市)公式ホームページ 開催日、歩行者天国の時間の情報あり
- トップページイベント情報一覧文化・観光・芸術入谷朝顔まつり台東区の紹介 動画あり
座標: 北緯35度43分11.6秒 東経139度46分57.68秒 / 北緯35.719889度 東経139.7826889度
入谷朝顔市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 11:38 UTC 版)
詳細は「入谷朝顔まつり」を参照 当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているのでそのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり、1913年(大正2年)になって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが、戦後1948年(昭和23年)に、地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)に当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している。
※この「入谷朝顔市」の解説は、「真源寺」の解説の一部です。
「入谷朝顔市」を含む「真源寺」の記事については、「真源寺」の概要を参照ください。
- 入谷朝顔市のページへのリンク