戦後の共楽館とは? わかりやすく解説

戦後の共楽館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:42 UTC 版)

共楽館」の記事における「戦後の共楽館」の解説

終戦翌日である1945年昭和20年8月16日日立鉱山所長福田重清は全鉱山従業員共楽館招集し平時戦時問わず鉱業重要な産業であることを力説し、全従業員安心しておのおのの業務精励するよう訴えた戦時中混乱日立空襲による甚大な被害日立鉱山大きく痛めつけていたが、復興徐々に進められていった戦後間もなく時期共楽館戦前から引き続いて日立鉱山従業員福利厚生施設であるばかりではなく地域教育、文化施設として利用された。これは日立空襲によって甚大な被害を蒙った日立市にあって共楽館奇跡的に難を逃れたため、全市的な利用なされることになったためと考えられる当時共楽館行われた地域開放され代表的な催しとしては、1948年昭和23年)、日立市主催文化祭コンクール会場となり、翌1949年昭和24年)には日立市主催する日立産業文化博覧会行事ひとつとしてNHKのど自慢公開録画が行われた。なお共楽館では1959年昭和39年)には日立市20周年記念行事一環としてNHK歌謡番組懐かしメロディ」の公開録音が行われている。 戦後の共楽館の利用特徴的なことは、労働組合関連利用が目立つことである。1946年昭和21年)の7月30日共楽館日立鉱山労働組合大雄院組合)の結成大会が行われ、翌1947年昭和22年1月には全国金属鉱山労働者大会の会場となった。その他、労組大会労組代議員大会労組メーデー会場などの労働組合活動拠点として、更には労働組合主催演芸会、労働文化祭映画会などに使用された。労働組合関係の使用1955年昭和30年)に大型会議室備えた組合事務所完成した後、利用頻度減少する一方戦前頻繁に行われていた従業員対象教化精神修養目的として行われた講演はあまり行われなくなった。これは時代の変化とともに労働者意識変わったことや、労働組合意向についても配慮しなければならなくなったからであると考えられる共楽館元来歌舞伎の上演を主目的として建設され建物であるが、しばしば歌舞伎の上が行われた戦前とは異なり戦後1946年昭和21年)から1948年昭和23年)までは夏の山神祭恒例行事として歌舞伎が行われたものの、1949年昭和24年)の山神以降歌舞伎消えその後1952年昭和27年)の正月興行1955年昭和30年)の市川少女歌舞伎公演記録残っているだけである。歌舞伎の上演が激減した理由としては、まず歌舞伎上演には多額の費用がかかり、戦後福利厚生費などの労務対策費用が上昇する中で、歌舞伎上演割ける余裕なくなったことが挙げられる更には観客嗜好変化、そして共楽館初期から裏方として歌舞伎上演支えてきたスタッフ亡くなったことも大きかった。また戦後戦前同様に共楽館奇術漫才などの各種演芸演劇、そして三橋美智也大友柳太郎近江俊郎島倉千代子トニー谷といった著名な歌手、芸能人公演が行われていたが、次第映画ウエイト高くなっていき、特に1960年代はほぼ映画館として使用されるようになっていく。これは日立市内に共楽館以外にも催し物開催できる施設整ってきたため、地域共楽館使用頻度減少したことも一因であった

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