戦後の共楽館
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終戦の翌日である1945年(昭和20年)8月16日、日立鉱山所長の福田重清は全鉱山従業員を共楽館に招集し、平時、戦時を問わず鉱業が重要な産業であることを力説し、全従業員が安心しておのおのの業務に精励するよう訴えた。戦時中の混乱、日立空襲による甚大な被害は日立鉱山を大きく痛めつけていたが、復興は徐々に進められていった。 戦後間もなくの時期、共楽館は戦前から引き続いて日立鉱山従業員の福利厚生施設であるばかりではなく、地域の教育、文化施設として利用された。これは日立空襲によって甚大な被害を蒙った日立市にあって、共楽館は奇跡的に難を逃れたため、全市的な利用がなされることになったためと考えられる。当時、共楽館で行われた地域に開放された代表的な催しとしては、1948年(昭和23年)、日立市主催の文化祭コンクールの会場となり、翌1949年(昭和24年)には日立市が主催する日立産業文化博覧会の行事のひとつとして、NHKののど自慢公開録画が行われた。なお共楽館では1959年(昭和39年)には日立市制20周年記念行事の一環として、NHK歌謡番組「懐かしのメロディ」の公開録音が行われている。 戦後の共楽館の利用で特徴的なことは、労働組合関連の利用が目立つことである。1946年(昭和21年)の7月30日に共楽館で日立鉱山労働組合(大雄院組合)の結成大会が行われ、翌1947年(昭和22年)1月には全国金属鉱山労働者大会の会場となった。その他、労組大会、労組代議員大会、労組メーデー会場などの労働組合活動の拠点として、更には労働組合主催の演芸会、労働文化祭、映画会などに使用された。労働組合関係の使用は1955年(昭和30年)に大型の会議室を備えた組合事務所が完成した後、利用の頻度が減少する。一方、戦前は頻繁に行われていた従業員対象の教化や精神修養を目的として行われた講演はあまり行われなくなった。これは時代の変化とともに労働者の意識が変わったことや、労働組合の意向についても配慮しなければならなくなったからであると考えられる。 共楽館は元来、歌舞伎の上演を主目的として建設された建物であるが、しばしば歌舞伎の上演が行われた戦前とは異なり、戦後は1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)までは夏の山神祭の恒例行事として歌舞伎が行われたものの、1949年(昭和24年)の山神祭以降歌舞伎は消え、その後は1952年(昭和27年)の正月興行と1955年(昭和30年)の市川少女歌舞伎の公演記録が残っているだけである。歌舞伎の上演が激減した理由としては、まず歌舞伎上演には多額の費用がかかり、戦後、福利厚生費などの労務対策費用が上昇する中で、歌舞伎上演に割ける余裕がなくなったことが挙げられる。更には観客の嗜好の変化、そして共楽館初期から裏方として歌舞伎上演を支えてきたスタッフが亡くなったことも大きかった。また戦後も戦前と同様に共楽館で奇術、漫才などの各種演芸、演劇、そして三橋美智也、大友柳太郎、近江俊郎、島倉千代子、トニー谷といった著名な歌手、芸能人の公演が行われていたが、次第に映画のウエイトが高くなっていき、特に1960年代はほぼ映画館として使用されるようになっていく。これは日立市内に共楽館以外にも催し物が開催できる施設が整ってきたため、地域の共楽館の使用頻度が減少したことも一因であった。
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