戦後の再整備の検討
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1955年5月、アメリカ軍は、本土から反基地運動で移転を余儀なくされた第3海兵師団第1海兵航空団の移駐を発表し、まずその移転先を沖縄の那覇海軍航空施設やボーロー飛行場に求めたが、空軍などが反発。与那原飛行場への移駐が検討された。米海軍は、那覇基地を上回る1855エーカーの土地と、それに伴う6000人規模の人員の移転が必要だと主張した。 1956年10月、しかし米国民政府 (USCAR) は、住民の移転先がないことや、西原村長が社大党であり、さらに「アジア全域に反米感情をあおることに利用される」ことを強く危惧し、与那原移転案は消滅した。結局、第1海兵航空団は普天間飛行場に拠点を置くことになる。 1957年8月14日、海軍司令官は在日米海軍司令官に与那原飛行場を余剰地として処分するよう指示し、同時に宮古島に滑走路を建設するための土地接収計画も中止となった。 1959年、与那原飛行場は返還された。
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