戦後の創作活動
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戦後の1945年(昭和20年)11月、短歌を中心とする一般文芸同人誌『銀河』を創刊した。三好町出身の歌人である石川恒夫、天田愚庵の研究者でもある中野菊男なども『銀河』に寄稿している。1948年(昭和23年)には詩集『人類の意思をたずねて』の私家版を発行した。1950年(昭和25年)5月には児童文学同人誌『若木』を創刊し、童話作家の花岡大学から評論を寄せられたこともあった。1953年(昭和28年)には西加茂郡三好町弥栄に住居を新築した。1954年(昭和29年)頃には第24号をもって『若木』を休刊させている。 1960年(昭和35年)12月、54歳の時には母のたいが享年84で死去した。1961年(昭和36年)10月には童謡・童詩集『かあさん花』の私家版を発行し、毎日新聞の学芸欄で「悲しい時に泣き、うれしい時に笑う自然の感情を万葉集のさきもりの歌に見いだしてやさしい現代語訳を試みている。素朴な人間感情をゆたかに再現して印象に残る」と評された。 59歳だった1965年(昭和40年)には『若木』を復刊させ、創作童話・詩・同様・書評などを発表した。1971年(昭和46年)には中部日本文学会が発行した『日本児童文学選集』に創作童話「パカンの万年筆」が収録された。1972年(昭和47年)には良寛の和歌の口語訳などの『スミレと鉢の子』の私家版を発行した。1974年(昭和49年)には詩人の原田直友や児童文学作家の羽曽部忠が主宰するぎんやんまの同人となった。同年には童謡詩集『来なかった魔法使い』の私家版を発行した。72歳だった1978年(昭和53年)には『若木』の発行を第49号で終えたが、1950年(昭和25年)の創刊からの通刊は73号だった。 1983年(昭和58年)11月、短詩集『天女の涙』の私家版を発行した。1984年(昭和59年)7月、現代少年詩集編集委員会による『現代少年詩集84'』に「六等席の駑馬」が収録された。1985年(昭和60年)、個人雑誌『青い雲』の発行を開始し、86歳となる1992年(平成4年)11月まで年2回の発行を続けた。1996年(平成8年)、童謡詩集『虹の橋』の私家版を発行した。1997年(平成9年)6月に死去した。享年92。
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