戦後の凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 06:50 UTC 版)
「シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道」の記事における「戦後の凋落」の解説
1946年までシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道は破産状態を脱することはできなかった。鉄道部門の収益性が悪く、さらに巨額の債務を抱えており資本の不足にも苦しんだ。しかしながら、戦時中に得た収入とシカゴ西部地域の発展によって旅客が増加する見込みがたったため輸送改善に乗り出した。地上設備と車両に関してかなりの改良が行われた。1946年には10両の鋼製車両を調達し、これに加えて初期から運用していた木造車を置き換えるために8両を追加で導入することを計画した。 しかし、戦後利用者は自動車へと流れていき、経営は窮地へ追い込まれた。コングレス・ストリート高速道路(現在のアイゼンハワー高速道路)の建設計画は旅客減少の原因と見られていたが、さらにその高速道路用地は電車が繁華街のターミナルへ乗り入れるために必要としていたCTAのガーフィルド・パーク高架線の跡地に建設されることとなっていた。 高速道路の建設計画において電車の走る線路用地は中央分離帯として利用する計画だった。しかし、高速道路が完成するまでの5年間は「L」の電車もインターアーバンの電車も一時的に地上の線路を走らなければならなかった。1951年にこの計画が広まったとき、シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道は所要時間の増加とシカゴ西部の道路の混雑による電車の遅れ増加を懸念して計画に反対した。高速道路の開業に伴い長期的に鉄道会社の収入が減るのは言うまでもなく、会社は遅れによって1年あたり100万ドル近い損失が出ると見積もった。他の長期的な懸案事項は会社の繁華街側のターミナルで、開業する新線はウェルズ・ストリート・ターミナル駅へアクセスすることができなかった。 シカゴ交通局がウエストチェスター線で行っていた不採算になっていた列車運行を終了した1951年に、妥協案としてフォレスト・パークにあるデスプレーンズ通り駅まで電車の運行を短縮する認可を得た。そこはCTAのガーフィルド・パーク線の最西端の駅である。新しいフォレスト・パークのターミナルでは、乗客はCA&Eのインターアーバン電車からCTAの電車に都市部への通勤のために乗り換えた。このターミナルには二つのループ線(一つはCA&Eでもう一つはCTA)があり、旅客はインターアーバンの電車と一時的に地上を走り、おそらく最終的には中央分離帯を走る新線のコングレス線となるCTAの電車と対面乗り換えすることができた。しかしながら、1953年9月20日にこの変更が行われるとCA&Eの利用客はシカゴの繁華街への直通列車を失ってしまった。この運行の短縮から数か月の間に、半分の利用客はこの路線の利用をやめ並行するシカゴ・ノース・ウェスタン鉄道の通勤列車、現在のメトラが営業するユニオンパシフィック・ウェスト線を利用するようになった。
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