戦後の再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:35 UTC 版)
戦後になると再び田沼時代及び田沼意次の再評価の流れができ始める。ジョン・ホイットニー・ホールは『Tanuma Okitsugu』(1955年)において、意次の政策を日本における資本主義の萌芽として評価した。1960年代に入って階級闘争史観から林基や佐々木潤之介が、日本史における同時代(宝暦-天明)の位置づけを論議し、画期的な社会変動期として、史学的に日本近世史における重要な時代と見なされるようになる。 田沼時代を評価する観点として、まず、そもそも日本の近世史において近世の終わりの始まり、すなわち幕府体制の崩壊はどこから始まったかという論点がある。1950年代においては本庄栄治郎や津田秀夫による江戸の三大改革を強調する観点から享保の改革を起点する見方が一般的となり、現代においても中高教育において、享保期から幕藩体制が揺るぎ始めたという説を取る(幕府体制に危機が生じたので享保の改革が起こったとする)。ただし、こうした津田の観点は辻達也や北島正元、山口啓二の批判があり、特に山口はむしろ幕府体制の確立が享保期にあったとする。藤田覚は、江戸の三大改革を重視する論説(三大改革論)を嫌疑する立場から、享保の改革と、寛政の改革以降はまったく種別が違うとし、田沼時代を幕府体制に綻びが生じた、すなわち明治維新の起点、あるいは近世の社会解体の始まりの時期として重視する。 そうした前提を踏まえた上で戦前に辻が指摘した通り、同時代を混濁腐敗の暗黒時代と見るのではなく、①民意の伸長、②因襲主義の破壊、③思想の自由と学問芸術の発達、加えて④開国思想、が起こった社会変革期と見なすことが通説となっている。また、これも辻が指摘した通り、意次の登場によって唐突に新しい時代が到来したのではなく、洋書輸入の解禁や株仲間の結成など享保期の政策が実を結んだのが田沼時代であって、現代において田沼時代(宝暦-天明)は、まず享保期からの連続性の中で論ずるのが通説となっている また、大石慎三郎は、田沼時代や意次の政治手腕が評価される中にあっても、従前の評価通りの史実だと見なされていた意次の賄賂政治家といった人物像に嫌疑を示し、これらを彼の失脚後などに政敵の松平定信などが作り出した話だと論じた。大石は、辻が『田沼時代』で示した意次の汚職政治に関する論拠を再検証した上で、これらは史料批判に乏しかったと猛批判し、今日における意次の賄賂政治家という人物像は辻に由来すると指摘した。加えて大石は同時代の別人、それこそ辻も清廉な政治家として引用した松平武元や松平定信には贈収賄があった史料が残っているのに対し、むしろ意次の方にはそれが皆無だったと指摘する。ただし、大石はだからと言って意次が清廉潔白な政治家だったとは断定できないし、当時の政治の常道としての賄賂や、特に現代で言うお歳暮程度の贈収賄はよくあったとも述べている。このように大石は同時代が汚職の時代であったことや、一般民衆が意次を批判していたことを否定しているわけではない。
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