戦後の動きと廃線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 14:32 UTC 版)
「名古屋市電押切線」の記事における「戦後の動きと廃線」の解説
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月27日、市電では営業時間短縮や運休区間設定などからなる戦時非常措置が実施された。これにより柳橋 - 明道橋 - 上江川線浄心町間が運休となる。復旧は戦後のことで、南半分の柳橋 - 明道橋間は1946年(昭和21年)9月21日、北半分の明道橋 - 浄心町間は翌1947年(昭和22年)8月5日にそれぞれ再開された。 戦後は線内を起終点とする系統がなくなり、西側区間では名古屋駅前方面から押切浄心連絡線経由で浄心町へ至る系統や、途中の菊井町より外堀通の路線(明道町線ほか)へ分かれる系統が設定され、東側区間では南北の上江川線・下江川線と直通する系統が設定された(#運転系統参照)。 名古屋市電は1950年代末に路線網・輸送人員ともに最盛期を迎えたが、事業の大幅な赤字化や市営バスの急速な拡大、自動車の普及による交通事情の変化など市電を取り巻く環境が変化したことから、市は1965年度(昭和40年度)から段階的な市電の撤去に着手し、1968年(昭和43年)12月には1973年度(昭和48年度)までに市電を全廃すると決定した。最大8あった押切線経由の運転系統も段階的に縮小され、末期には西側区間では浄心町と笹島線笹島町を結ぶ系統が、東側区間では浄心延長線秩父通から八熊通経由で築港線熱田駅前に至る系統がそれぞれ残されるのみとなった。廃線は東側区間が先で、1971年(昭和46年)4月1日、秩父通から八熊通までの6.4キロメートルの廃止により消滅。西側区間についても、一挙に16.5キロメートルが廃線となった1972年(昭和47年)3月1日付の路線廃止により全廃された。
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