戦後の医療研究の隆盛
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「国立療養所菊池恵楓園」の記事における「戦後の医療研究の隆盛」の解説
1948年10月5日、プロミンが厚生省配給により、菊池恵楓園で使用できるようになり、研究の機運が湧いてきた。菊池恵楓園での研究の隆盛について、菊池恵楓園50周年史に基づいて、かいつまんで書く。 1947年3月、元満州医科大学生理学教授であった緒方維弘が熊本大学に赴任した。汗の研究の久野教授の高弟である。同教授指導の下、志賀医務課長が「らい性発汗障害患者高暑時体温調節」の研究報告が出されたのが1948年である。緒方教授の努力により、日本学術会議第7部(医学)副部長久野教授を中心に、熊本大学、その他の協力を得て1950年4月本園において「らい特殊研究班」が結成された。出席者は東京大学教授、放射線、中泉正徳、解剖、小川鼎三(代理中井準之助)、東京医科歯科大学、生理、勝木保次、名古屋大学、生理、久野寧、京都大学、病理、鈴江懐、皮膚、山本俊平、外科、荒木千里、内科、前川孫二郎(代理、荒木仁)、外科、木村忠司,広島大学、最近、占部薫、長崎大学、皮膚、北村精一 熊本大学、解剖、佐々木宗一、細菌、六反田藤吉、生理、緒方維弘、外科、勝屋辰弘、放射線、亀田魁輔、婦人科、加来道隆、内科、勝木司馬之助、病理、河瀬収、皮膚、楢原憲章、小児科、永野祐憲、病理、久保久雄、解剖、くつ那将愛、外科、浅野芳登、神経、宮川九平太、内科、宮尾定信、薬理、渡辺恵鎧、眼科、須田経宇。 1933年より眉毛の形成術がおこなわれるようになった。1954年から眼科の須田教授の手術、1954年6月に熊大に赴任した整形の玉井教授は教室員をつれて、手術を行い、教室員2名を派遣した。 宮崎松記は、らい研究所の分室を菊池恵楓園に誘致した(1955年7月1日 - 1957年7月31日、分室長、宮崎松記)。現在の社会福祉会館の立派な建物も当時に建設された。偶々、学位制度の改革が1960年にあることになり、学位を取得する熊本大学の研究者が続々と研究に菊池恵楓園で働くことになった。しかし、博士になった後はほとんど離れていった。
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