戦後の各国の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:15 UTC 版)
「ヴェルブジュドの戦い」の記事における「戦後の各国の情勢」の解説
同盟者が戦死した報告を受け取ったアンドロニコス3世はセルビアとの戦闘を中止し、弱体化したブルガリアに侵入した。ソゾポリス(現在のソゾポル)、メセンブリア(現在のネセバル)などのバルカン山脈南部の黒海沿岸部の都市が東ローマの支配下に入るが、1332年のルソカストロの戦い(英語版)でブルガリアは東ローマに勝利し、東ローマに奪われたトラキア地方の領土の大部分を回復した。 ウロシュ3世はマケドニアに向い、戦闘前に東ローマによって奪われた城砦を奪回した。勝利したウロシュ3世がセルビアの宮廷に帰還した後、1330年末にデチャニ修道院の基本綱領が制定される。翌1331年初頭にステファン王子はウロシュ3世の対東ローマ政策に反発し、反乱を起こした。信仰心の強い父ウロシュ3世とは対照的に若いドゥシャンは積極的な性格を持ち、ヴェルブジュドの勝利を更に利用した勢力の拡大を望む貴族たちに支持された。1331年の1月から4月にかけてセルビアで反乱が起きている中、ブルガリアでは貴族たちがイヴァン・ステファンを廃位し、イヴァン・ステファンの従兄弟であるイヴァン・アレクサンダルを皇帝に擁立した。 結果的に、ヴェルブジュドの戦いはセルビアがバルカン半島の大国に成長する端緒となる。1331年に父から王位を奪ったウロシュ4世は東ローマ領へ攻撃を行い、1333年から1334年の間に北マケドニアの安全を確保した。さらにウロシュ4世はマケドニア、アルバニア、テッサリア、イピロスに支配を広げるため東ローマの内戦を扇動し、内戦は1341年から1347年にかけての期間に及んだ。1346年にセルビアとブルガリアは講和し、ウロシュ4世は同盟者イヴァン・アレクサンダルの力添えによってセルビア皇帝として戴冠した。
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