ドイツ帝国、1871年 - 1918年
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「ヴュルテンベルク」の記事における「ドイツ帝国、1871年 - 1918年」の解説
プロイセンとの戦争が終わると、ヴュルテンベルクでは民主主義者たちの運動が再び活発になったが、1870年に普仏戦争が始まったためにこの運動は何の成果も結ばなかった。ヴュルテンベルクの政策は依然として反プロイセン的だったが、王国もまたドイツ中に広がった民族主義的熱狂に呑み込まれ、ヴュルテンベルク軍はウェルトの会戦その他の軍事作戦で大きな役割を果たした。1871年、ヴュルテンベルクは新しく誕生したドイツ帝国の一員となったが、郵便、電信、鉄道の管理権を保つことが出来た。ヴュルテンベルクはまた課税と軍事に関する一定の特権を認められ、続く10年間、ヴュルテンベルク王国は熱烈に新秩序を支持した。ヴュルテンベルクでは数多くの重要な諸改革、特に財政分野の改革が断行されたが、ヴュルテンベルクの鉄道をドイツの他地域の鉄道と統合しようという提案は、受け入れられることは無かった。1889年に減税が実行されると、憲法改正が王国の政治問題の俎上に載ることは時間の問題となった。カール1世と大臣たちは議会内の保守勢力を強化してこれに対抗しようとした。1874年、1876年、1879年の立法は徹底的な問題解決を先送りして僅かな改革を実行するに留まった。1891年10月9日、カール1世王は急死した。従弟のヴィルヘルム2世(在位1891年 - 1918年)が王位と前任者の政策を引き継いだ。 憲法改正に関する議論は続けられ、1895年にはついに選挙で強力な民主主義者の政権が成立した。ヴィルヘルム2世には息子が無く、推定相続人のニコラウス公(1833年 - 1903年)にも子供がいなかった。王位継承権は最終的にヴュルテンベルク家のカトリック信徒の傍系に移ることになったが、カトリック信徒の王が誕生すれば王国内の教会と国家の関係に齟齬が生じる心配があった。1910年、カトリック信徒のアルブレヒト公が国王の新たな法定推定相続人に指名された。 1900年から1910年にかけてのヴュルテンベルクの政治の焦点は、憲法問題と教育問題の解決にあった。憲法は1906年に改正され、教育問題は1909年以降解決に向かった。また1904年、ヴュルテンベルクの鉄道はドイツの他地域の鉄道と統合された。
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