ドイツ帝国成立までのベルリン王宮の歴史とは? わかりやすく解説

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ドイツ帝国成立までのベルリン王宮の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 15:25 UTC 版)

ベルリン王宮」の記事における「ドイツ帝国成立までのベルリン王宮の歴史」の解説

ドイツ語の「Stadtschloss」は、都市意味するStadt」と城を意味する「schloss」に分解できるベルリン王宮はもともとは城あるいは要塞であり、シュプレー川挟んで東にベルリン、西にケルン(Cölln、後にベルリン吸収された)という双子小都市があった時期を守るようにケルン側に建てられていた。城が建っていたケルンの街はフィッシャー島(Fischerinsel、現在の博物館島)と呼ばれる中州の上にあったベルリン王宮ができる前、この周囲の都はブランデンブルクにあり、ベルリン・ケルンには1310年頃に建てられたホーエス・ハウスと呼ばれるゴシック様式レンガ造り三階建ての城がベルリン側の東の端に建っていた。15世紀入り、ホーエス・ハウスはブランデンブルク辺境伯居城となった1443年フリードリヒ2世歯侯は新しベルリン市城をケルン市街北側築いた。これが後のベルリン王宮である。この城および兵営目的は、中世以来都市特権手放そうとせず中央集権進め君主従おうとしないベルリン市民に、選帝侯権威見せ付けるためのものであった1448年頃、選帝侯対立深める市民はホーエス・ハウスとベルリン市建設現場を襲う事件起こすが、1451年選帝侯ベルリン市城に入居した。この城はベルリン市街の対岸にあたる中州東側シュプレー川沿って建つ三階建てで長さ88mもの長い建物であり川に礼拝堂突き出しており、市民からは「ケルン威圧城」と呼ばれ嫌われた。この東翼がベルリン王宮最初に建てられた棟である。 宗教改革最中1538年ヨアヒム2世ヘクトルは城の周囲の建物取り壊し主任建築家のカスパル・タイス(Caspar Theiss)にイタリアルネサンス様式のより大きく立派で華やかな装飾施され宮殿造るよう命じたタイス既存建物の南のケルン市街面するように新たな翼を造りその前に広場作った。この増築結果城はL字型増築され、さらに中州中央にもうひと棟増築され城は「コ」の字型になった。城の前の広場馬上槍試合などの開催されるベルリン・ケルンの中心地となった16世紀末のヨハン・ゲオルクイタリア人建築家リナール伯ロクスRochus Graf zu Lynar、イタリア語:Rocco Guerrino di Linari、ロッコ・グェリーノ・ディ・リナーリ)にさらに西翼と北翼を作らせ二つ中庭のある「日」の字型の配置とした。東翼の北のシュプレー川沿いには「医棟」(ホーフアポテーケ、Hofapotheke)と呼ばれる錬金術実験棟を作らせた。 三十年戦争1618年 - 1648年)の後、フリードリヒ・ヴィルヘルム選帝侯オランダ人建築家ヨハン・ネリンク(Johann Nering)を雇い宮殿をより壮麗改築した彼の治世の終わりごろ、王宮北側菜園薬草園オランダ風幾何学的庭園ルストガルテンとなり、王宮内には大きな舞踏会室やブラウンシュヴァイク・ギャラリーなどが完成した1699年フリードリヒ3世1701年プロイセン王即位しフリードリヒ1世」となる)はベルリン市城をバロック式王宮改造する野望持ち、プロテスタント・バロックを代表する建築家でもとは彫刻家であったアンドレアス・シュリューター(Andreas Schlüter)を王宮建築監督官とする契約をし宮殿バロック様式改築させた。彼のもと、既存建物秩序正しく要所要所の門に4本のコリント式大円配したバロック古典主義外観備えるようになり、宮殿内広間階段室バロック式装飾彩られた。しかし1706年王宮北西端給水塔を「鋳造所塔」(ミュンツトゥルム、Münzturm)に改造する工事軟弱な地盤のために失敗し、この責任取ってシュリューターは解任された。より豪華大きな宮殿建築案を提出したライバル建築家ヨハン・フリードリヒ・エオザンダー・フォン・ゲーテ(Johann Friedrich Eosander von Göthe)が後を継ぐ。シュリューターの名は彼の手がけた円柱立像立ち並ぶバロック様式中庭シュリューターホーフに、エオザンダーの名は八角形ドーム頂いたバロック様式西門・エオザンダー門にそれぞれ残った凱旋門式の入口大きくうねるブロークン・ペディメントを載せたエオザンダー門の三階部分にはエオザンダー・カペレという八角形大きな礼拝堂があり王族挙式などが開かれ、隣の「白の間」(Weißen Saal)はプロイセン歴史舞台となった1713年プロイセン王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、「兵隊王」のあだ名どおり軍事力増強に力を注ぎルストガルテン練兵場変えてしまい、王宮建設進めていた職人芸術家達を解雇したこのためエオザンダーの建築案も結局部分的にしか実現しなかったものの、18世紀半ばには宮殿外観はほぼ後年通りの姿になった最後増築となったのは1845年から1853年にかけて、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世時期にエオザンダー・カペレの上建てられた大ドームで、カール・フリードリッヒ・シンケルの設計に基づき、その弟子フリードリッヒ・アウグスト・シュテューラーが手がけたものであった。これにより礼拝堂巨大ドームの下の大空となった。これ以後宮殿外観大きな変化はなかった。しかし内部は、ゲオルグ・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフらによって大きく手が加えられている。 ベルリン王宮プロイセンにおける1848年革命の主舞台となった自由主義者市民らは、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世宛てた憲法制定自由主義改革ドイツ統一求め嘆願書を手に王宮前に結集しフリードリヒ・ヴィルヘルム4世王宮前に集まった大群衆に要求受け容れる約束をした。3月18日には王宮前での大きなデモ流血暴動となり、市街戦発展したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世プロイセン欽定憲法制定したものの、自由主義改革行わず専制続けた。こうしてベルリン王宮ベルリン市民からプロイセン専制シンボルみなされるうになる

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