ドイツ帝国軍時代
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「オットー・フォン・ロッソウ」の記事における「ドイツ帝国軍時代」の解説
バイエルン王国ホーフ出身。父は地主のオスカー・フォン・ロッソウ(Oskar von Lossow)。母はその妻ヨハンナ(Johanna)。1886年に実科ギムナジウムを出て、バイエルン近衛歩兵連隊に入隊。まもなくミュンヘンのバイエルン戦争大学(Bayerische Kriegsakademie)に入学し、1888年に卒業すると少尉に任官した。1900年から1901年には東アジア遠征第2歩兵旅団の旅団長副官として義和団の乱に揺れる大清帝国に派遣され、義和団の鎮圧に参加した。1908年には少佐に昇進するとともにプロイセン参謀本部に配属された。バイエルン王国第8歩兵連隊「大公フリードリヒ2世、フォン・バーデン」に大隊司令官として配属された。1911年に中佐に昇進するとともにオスマン帝国に軍事指導官として派遣され、オスマン帝国軍参謀本部に所属した。バルカン戦争にはオスマン軍歩兵師団の師団長として参加。 1914年に第一次世界大戦がはじまると西部戦線のバイエルン第1予備軍団の参謀長となった。1915年7月にオスマン帝国コンスタンティノープルのドイツ大使館の駐在武官となる。1916年に少将に昇進。1918年には南部国土防衛軍参謀長(Generalstabschef beim Oberbefehlshaber des Heimatschutzes Süd)となった。
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ドイツ帝国軍時代
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「ヴィルヘルム・カイテル」の記事における「ドイツ帝国軍時代」の解説
同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった。士官学校を経ずして、1901年3月にヴォルフェンビュッテル(de:Wolfenbüttel)の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した[疑問点 – ノート]。 1902年8月に少尉(Leutnant)に進級するとともに、公国の首都ブラウンシュヴァイクの勤務となる。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常に真面目で「ギャンブルもせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた。 野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった。1909年にハノーファーの資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚。カイテル夫妻は6児をもうけた。 第一次世界大戦が開戦した際には第46砲兵連隊長副官の中尉だった。カイテルの連隊は西部戦線に動員された。カイテルは榴弾の破片で戦傷を負い、二級鉄十字章と一級鉄十字章、そして戦傷章黒章を受章した。この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である。 病院を退院した後、1915年3月から参謀本部に配属となる。本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となった。またこの参謀本務勤務時代に四歳年長のヴェルナー・フォン・ブロンベルク少佐(当時)と親しくなった。
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